心を開く合言葉、といえば、
19から21歳まで暮らした石川県で、こんなことがありました。
それは、路線バスに乗ったときのこと。
石川県のバスは、後ろから乗って整理券をもらうタイプで、
料金の支払いは降車時となります。
前から乗るのが当たり前だった東京との違いに、
小さなカルチャーショックを覚えつつ、
それ以上に驚いたのは、運賃を支払ったあとのみなさんの言葉だったのです。
「ありがと〜」
子どもも、サラリーマンも、高校生も、おじいちゃんだって、
みんながみんな、運転手さんに向かって、ありがと〜。
バスの運転手さんにお礼を言う発想がなかったため、
これは、嬉しい驚きでした
その日以降、バスに乗るのは僕の楽しみのひとつとなりました。
気分がいい。
ここにいるみんなが「ありがと〜」って言うんだよなーと思うだけで、
すべての人が素敵に見えてくるのです。
まさに、心を開く合言葉。
もちろん、僕だって勇気を出して言いましたよ!
今回、紹介する映画『有りがたうさん』の場合は、
バスの運転手さんが道をあけてくれた人に向け、
心を感じるやさしい声で、「ありがと〜」と声を掛けます。
そんな"有りがたうさん"を軸にした、ほっこりロードムービー。
まずは、ストーリーからご確認ください。
***
南伊豆のとある港町。
一台の乗り合いバスが待合室の前に止まっている。
美しい娘を連れた老母が乗り込み、淋しそうに運転手に言う。
「有りがとうさんに乗せて行って貰うなら、この娘も幸せです…」
貧しい老母は遠くの町に娘を売りに行くのだ。
そして、いわくありげな黒襟の娼婦、
娘を鄙猥な目つきで見る保険の勧誘員らを乗せてバスが走り出す。
時折、娘の視線が運転手の背中に止まる。
娘は以前から運転手に好意を寄せていた。
バスが馬車に追いつくと、
道端に寄った馬車の横を「ありがとう」と運転手が窓から顔を出しながらすり抜ける。
また、荷車が横に寄る。
「ありがとう」。だから人々はこの丁寧な運転手を "有りがたうさん"と呼ぶ。
バスは様々な人生を乗せ、様々な人生とすれ違って走っていく…
***
こちら、川端康成の掌編小説「有難う」を原作としています。
タイトルの通り、たくさんのありがと〜が全編にわたって飛び交う、
心地よいロードムービー。
バス停のないところで呼び止められ、ことづてを頼まれたり、
車内にいるみんなでお酒を飲んで歌ったりと、
昭和的なおおらかな雰囲気にほっこりしてしまうこと間違いなしです。
(乗り遅れたおじさんがバスを追いかけ、
それに続くように犬が歩いていく場面が、個人的ベストシーン)
撮影方法も、魅力的です。
当時の日本映画界では画期的だったオールロケーションでの撮影。
舗装されていない道路や荷馬車の姿など、
ありのままの日本の原風景が次から次へと楽しめます。
古い映画はほとんどがセット撮影のため、想像している以上に新鮮だと思います。
監督は、戦前ニッポンの隠れた名作『按摩と女』を作った清水宏。
日本映画史に大きな貢献をしながらも知名度が追いつかず、
しかし小津安二郎や溝口健二という巨匠をして"天才"と言わしめた重要人物です。
感度の高いキナリノ読者のみなさんには、ぜひ知ってもらいたい!
ということで、この味わい深い一作『有りがたうさん』を今回紹介でき、
僕は秘かに興奮しているわけです。
あわせて、『按摩と女』も観ていただけたら、こんなに嬉しいことはありません。
それにしても「ありがと〜」って言うだけなのに、
どうしてこんなに胸があったかくなるんだろうなぁ。
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『有りがたうさん』
DVD 3.080円(税込み)
好評発売中
発売・販売元:松竹
©1936 松竹株式会社
※2023年3月時点の情報です
映画選定・執筆
キノ・イグルー
有坂塁
東京を拠点に全国のカフェ、パン屋、酒蔵、美術館、 無人島などで、世界各国の映画を上映している。
さらに「あなたのために映画をえらびます」という映画カウンセリングや、
目覚めた瞬間に思いついた映画を毎朝インスタグラムに投稿する「ねおきシネマ」など、
大胆かつ自由な発想で映画の楽しさを伝えている。
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