ツヤツヤとしたキュウリ、しんなりと美味しそうになったにんじん、お重に入ったお稲荷さん……。
「本当に、なんでもないものですけど」と奥さんが運んできてくれます。
戸塚醸造店でつくられているお酢は、伝統製法によるものです。
「本当に昔のつくり方でやっているので、たとえば今日仕込んだものがお客さんの手元に届くまで1年半*ほどかかるんです。でも、これが一番シンプルで美味しいつくり方だと思っています」
そう話しながらお酢の仕込み作業を進める戸塚さん。先代から伝統製法と工場を受け継いだのは、今から11年前のことでした。
お酢屋さんを継いだ、元銀行員
「最初に先代と出会ったきっかけは『もうここやめるんだけど、廃業手続きはどうしたらいいの』っていう相談だったんです。僕は高校卒業後からずっと金融界にいまして、銀行員としてこの工場の担当になったんですよ」
そう、戸塚さんと先代の最初の出会いは、なんと「銀行員」と「得意先」という間柄。当時70歳だったという先代が年齢や体調の問題に直面し、さらに跡取りがいない状況であったため、工場をたたもうとしていたころのことでした。
そんな話をしながら仲良くなっていったころ、先代が体調を崩して突然の入院。幸い大事には至りませんでしたが、工場の人手が足りなくなったそのときから、時間の合間を縫って戸塚さんが工場を手伝う日々がはじまりました。
「手伝ってるうちに、全く知らなかったお酢づくりの世界におもしろさを感じて、はまってしまったんです。『醸造?何それ!お酢?どうやってつくるの?!おもしろそう!』という感じでした」と、当時のことを振り返ります。
「そのころは正直、金融界はもうそろそろ自分には充分かな、という気持ちもありました。そんな中で、一緒に工場を手伝っていた先代の親戚のおばちゃんたちも『戸塚くん、お酢屋さんと銀行、どっちがいい?』なんて話をしてくれて」と、うれしそうに話す戸塚さん。さらに先代の「継いでくれるならうれしい」という気持ちを最大の引き金に、戸塚さんが工場を継ぐという話はとんとん拍子に進みます。こうして戸塚さんは、勢いと情熱に身を任せ、先代の跡を継ぐことを決意。31歳で本格的にお酢づくりの世界に飛び込みました。
酢酸菌を絶やさないために
「お酢づくりには酢酸菌(さくさんきん)という菌が欠かせないんですけども、これは目には見えないながら、生き物なんですね。自分が働きはじめたときには、その菌がもう弱ってしまっていたんです」
戸塚さんのつくるお酢は、仕込みの際に入れられた酢酸菌(さくさんきん)が、お酒をゆっくりゆっくり酢にかえていく(=発酵する)ことでできあがります。元気な酢酸菌は発酵したてのお酢の中にしかいないため、少し前につくったばかりのお酢を仕込み時に加えることで酢酸菌をつないでいるのです
時間をかけながら、酢酸菌を元気な状態に戻していこうと試行錯誤をする日々。こうして、先代から途絶えそうだった酢酸菌を受け継ぎ、戸塚さんのお酢づくりがはじまります。
弱ってしまっている酢酸菌に加え、すべてが手作業の重労働、わからない中での手探りの作業と、工場で働き始めてすぐに戸塚さんは伝統製法の難しさを痛感したといいます。終始明るい口調でずっと話をしていた戸塚さんでしたが、さすがにこのころのお話のときは、「大変でしたねぇ……」とポツリ。
夫婦ふたりで小規模ながら、とことんこだわったものを
現在戸塚さんがお酢づくりに用意するのは、「米」「麹菌」「酵母菌」「富士山の伏流水」、そしてそれらをお酢にするための「酢酸菌」の5つの材料のみ。使用する材料が少ないからこそ、どれもこだわりの材料を使っているという戸塚さん。米酢の原点であるお米は山形県庄内地方でつくられる、ご飯として食べてもピカピカで美味しい「有機栽培米コシヒカリ」を使います。
また、麹菌と酵母菌に関しては、菌を増殖するための餌に何を使っているのかまで調べたといいます。
「うちは量産できるわけではないので、それじゃあもう、夫婦ふたりで小規模ながら、とことんこだわったものを、大手さんにはできないものをつくろう、と思って」
戸塚さんがつくるお酢は、本当に細かい部分まで、それこそ微生物レベルまで戸塚さんによって材料や方法が選ばれているのです。
手で温度を見る
お酢の原料は、お酒と水。そこに酢酸菌が作用することによってその姿をお酢に変えていくため、お酒から自分のところでつくるのだそうです。
今回お邪魔したのは、ちょうど今シーズンの一番最初の作業であるお酒仕込みの真っ最中でした。
まずは蒸されたお米に麹菌をまぶして麹の準備。24時間ほどでお米の表面に菌が付き、発酵していきます。発酵が進めば進むほど、お米の表面は真っ白になっていくのだそう
「麹菌も、生き物ですから。うまくいかないときはこのほぐしの作業もすごく時間がかかります」
そう言うと戸塚さんはテキパキと動きながら麹に手を入れ、「うん、良い感じ」と何度もつぶやきます。
どうやら今回の麹づくりは順調のようです。
菌同士がくっつくと固まりができ、固まりの部分は温度が上昇し過ぎてしまいますので、これをほぐします
このほぐす作業を「棚製麹(たなせいきく)」と呼びます
機械は使わない
「この温度は触ってみないと意外とわからないんです」と戸塚さん。温度計でも管理していますが、手によってより細かな違いを見極めます
「量産するためにはこのほぐしの作業を機械でやるべきなんですけど、機械でやると、ほぐせるにはほぐせるんですけど、温度差のある場所をきちんと混ぜられない。つまり、発酵が進むところと進まないところとムラができちゃうんです。ムラができると、最終的な出来上がりの味は3割ほど落ちると言われています。だからうちは、量産しません」
一回のほぐしの作業は1時間から2時間かけます。次の日のお昼まで、3~4時間ごとに4~5回、麹の様子をみながら同じ作業を繰り返しおこないます
何度も両手で麹をほぐす様は、良いお酢になりますように、とお祈りをしているようにも見えました
自分の舌を信じる
熟成室で出来上がった酢を見せてくれる戸塚さん。甕は背が高いので足場が組まれています
酸っぱいだけではない秘密
「ろ過をすることで余分なカスや雑味が取れるんですが、これは良い匂いも悪い匂いも全部とっちゃうっていうことなんです。ですから、ろ過をすることで、多少失敗しようが出来上がりが均質になるというメリットもあるんですが、同時に美味しい香りもなくなってしまうんです」
甕の中で長い時間を過ごすことで、ゆっくりゆっくり、余分な雑味が沈んでいきます
「うちは、ろ過をせずに、時間をかけて雑味のもとが自然に沈むのを待って、甕の上澄み部分を商品にしています。だから香りや風味がそのまま残って、酸っぱいだけのお酢にはならないんです」
主力の「心の酢」以外の商品も、もちろんろ過はせず、添加物も加えていません
無ろ過のお酢を、お客さんも自然と選んでくれた
「そうすると、明らかに『ろ過しないもの』のほうの販売量が増えてきて、お客さんが『無ろ過のほうがうまいね』って言ってくれました。それで『戸塚醸造店』になってからはろ過するのを完全にやめました」と、戸塚さんはうれしそうに笑います。
昔の人も、データはなくとも感覚で良いほうを選んでいた
昔の人は感覚で良いほうを選んでいた、という逸話として、戸塚さんはこんな話もしてくれました。
「たとえば水には硬水と軟水がありますよね。今うちは富士山の伏流水を使っていますけど、これは軟水なんです。それと比べて、たとえば温泉の出る場所の水というのは硬水で、お酒づくりには向いていない。だから昔からの酒蔵がある地区っていうのは、軟水の良い水が出るところなんですよね。昔の人は硬水だとか軟水だとか、成分がどうのこうのとかはわからないはずなんですけど、肌で『この水が良い』とわかっていたんでしょうね」
おもしろそう、が在るほうへ
新しい工場では甕をいくつか増やし、現在よりも少しだけ多くの酢をつくれるようにするといいますが、それ以上の規模の拡大を現状は考えていないと戸塚さんはいいます。
「量産はもちろん、分業制も考えていません。つくる作業が好きでやってるっていうのもあるので、一から十まで自分でつくりたいんです。誰かを今後雇ったとしても、その人はその人で最初から最後までつくるほうがおもしろいかな、と思っています。同じ原料・同じ製法でやっても、もしかしたら味が違ったりするかもしれないですよね。そういうのもおもしろいです」
「この近くのお寺の住職さんが京都からいらした方で、有名な精進料理をつくられる方だったんだそうです。で、その精進料理に欠かせないのが『お酢』だったんですが、当時の住職いわく、『関東には本物の酢がない』と。『ないならつくろう、おもしろそうだ』といってお酢をつくりはじめたのが、うちの先代だったわけです」
先代同様、シンプルな自分の感覚に正直にお酢をつくってきた戸塚さん。この世界に飛び込んだのは「おもしろそう」だと思ったから。無ろ過を選んだときは「こっちのほうが美味しい」と自分の舌を信じたから。どちらを選べば良いか迷ったとき、正直な自分の感覚に従ってひとつひとつをしっかりと選んできた結果、先代の酢酸菌は戸塚さんに引き継がれ、戸塚醸造店では今日も、しっかりとお米が香る「本物のお酢」がつくられています。
(取材・文/澤谷映)
新宿からわずか一時間半で着く上野原。山と川が美しい場所です