「小さな幸せ」は手の届くところにあります
人と比べては自分をみじめに思ったり、ないものを数えては落ち込んだりしていませんか。そんなあなたのそばにも、「小さな幸せ」は無数にあります。今はそれに気が付いていないだけなのです。
すでに受け取っている幸せに気付く
わたしたちは「ない」ものばかりに目が行きがちです。だから何か足りない、欠けている、恵まれていないと考えてしまうのです。
「ある」ものは存在するのが当たり前すぎて、気付けない。でもそれは、元々は「ない」もので、誰かが与えてくれたからそこに「ある」のです。つまり、わたしたちはじゅうぶんに受け取っている。そのことに気付くことが大切なのです。
「ある」ものは存在するのが当たり前すぎて、気付けない。でもそれは、元々は「ない」もので、誰かが与えてくれたからそこに「ある」のです。つまり、わたしたちはじゅうぶんに受け取っている。そのことに気付くことが大切なのです。
「ない」ものには気付きやすい
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いつでも買えるものが店頭に「ない」とき。当たり前のサービスが受けられ「ない」とき。敏感に察知し、焦りや怒りを感じるといった経験があるのではないでしょうか。
同じように、他人にはあって自分には「ない」ものにも、気付きやすい。そんな性質がわたしたちにはあるのです。
同じように、他人にはあって自分には「ない」ものにも、気付きやすい。そんな性質がわたしたちにはあるのです。
「ある」ことが当たり前だから、気付けない
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インフラが整い、何でも手に入る便利な世の中ですから、「ある」ことが当たり前になっています。しかし、今当たり前に「ある」ものも、元々は「ない」ものでした。言い換えると、わたしたちは無数のありがたいものを、すでに受け取っているということです。
想像力を働かせる
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そんな、無数に「ある」ものに気付けるようになるには、創造力を働かせることです。昨日と同じ今日がやってくるためには、どれだけの人やもの、ことに支えられているのでしょうか?
当たり前の日常は、決して当たり前ではない。そのことを忘れてしまう瞬間はあっても、非日常を経験したわたしたちは、身に染みてわかっているはずです。
当たり前の日常は、決して当たり前ではない。そのことを忘れてしまう瞬間はあっても、非日常を経験したわたしたちは、身に染みてわかっているはずです。
たとえばこんな「小さな幸せ」
さて、あなたの手の届く範囲には、どんな「小さな幸せ」が隠れているでしょうか。すでに受け取っているでしょうか。そして、そのことを忘れてはいないでしょうか。
静かに目を閉じ、「小さな幸せ」に思いをはせてみましょう――。
静かに目を閉じ、「小さな幸せ」に思いをはせてみましょう――。
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・昨日とそっくりの今日が巡ってくること
・なんでもないことに笑えること
・大切な人が生きていること
・おいしくごはんが食べられること
・窓から見える変わらない景色
・消えることのないやさしい記憶
・どこまでも続く空と、雨上がりに見えた虹
・なんでもないことに笑えること
・大切な人が生きていること
・おいしくごはんが食べられること
・窓から見える変わらない景色
・消えることのないやさしい記憶
・どこまでも続く空と、雨上がりに見えた虹
……こんなふうに探せば見つかるのが、「小さな幸せ」なのです。
人のために尽くすと、やがては自分に戻ってくる
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すでに受け取っている「小さな幸せ」に気づいたら、今度はあなたが誰かにパスを送る番です。誰もが心の中で「誰かの役に立ちたい、社会の役に立ちたい」と思っているもの。それは「利他の心」でもあります。
その「小さな幸せ」のパスを送り続けた結果、あなたに返ってくるものもまた、「小さな幸せ」なのです。
その「小さな幸せ」のパスを送り続けた結果、あなたに返ってくるものもまた、「小さな幸せ」なのです。
「小さな幸せ」のパスを送るには
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自分にはこれといった特技もないし、お金も時間もない。だから人のため、社会のためにできることなんてない――。そんな方には、仏教の「無財の七施」という考え方が参考になります。
あなたの所作や言葉で、相手の苦痛を取り除いたり、喜びを大きくしたりすることだってできる。やさしいまなざしを向けるだけでも、「小さな幸せ」のパスを送ることができるのです。
あなたの所作や言葉で、相手の苦痛を取り除いたり、喜びを大きくしたりすることだってできる。やさしいまなざしを向けるだけでも、「小さな幸せ」のパスを送ることができるのです。
「陰徳(いんとく)を積む」という行い
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対象となる相手がいなくとも、「小さな幸せ」のパスを送ることはできます。それは、「陰徳を積む」という行いです。誰も見ていないところで、ひそかに善い行いをするということです。
道に落ちているゴミを拾う。通路をふさいでいる自転車を端に寄せる。その行いによって、どこかの誰かが気持ちよくすごせるのです。感謝というレスポンスは得られなくても、それは決して無益なことではありません。
道に落ちているゴミを拾う。通路をふさいでいる自転車を端に寄せる。その行いによって、どこかの誰かが気持ちよくすごせるのです。感謝というレスポンスは得られなくても、それは決して無益なことではありません。
自分に戻ってくる「小さな幸せ」とは
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自分以外の人のことを考え、人のために尽くす。そうして「小さな幸せ」のパスを送り続けていくと、巡り巡ってまた自分のところに返ってくる。そのことを目的にするのではなく、結果として受け取ることができる、ということです。
その「小さな幸せ」とは、社会からの恩恵だったり、人からの親切だったり、思いがけず「人生の意味」を受け取ることもあるかもしれません。
その「小さな幸せ」とは、社会からの恩恵だったり、人からの親切だったり、思いがけず「人生の意味」を受け取ることもあるかもしれません。
生かされていることに感謝する
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もうお気付きかもしれませんが、わたしたちは大きなサイクルの中で生かされています。誰もが誰かの支えになり、支えられている。「小さな幸せ」を受け取りあっているのです。
何気ない日常のなかにも小さな喜びを見出し、感謝することで、心を満たしていけるのです。
何気ない日常のなかにも小さな喜びを見出し、感謝することで、心を満たしていけるのです。
ひとりで生きている人は誰一人いない
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「ある」ことが当然の世の中に、わたしたちは生きています。それはつまり、ひとりで生きている人は誰一人いないということ。みな何かしら社会の恩恵を受けて生きているのです。
あなたも誰かの支えになっていますし、見知らぬ誰かの支えによって生かされています。
あなたも誰かの支えになっていますし、見知らぬ誰かの支えによって生かされています。
相互関係の中で生かされている
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窮屈な社会では、つい「自分が、自分が」と主張したくなる向きもあります。心に余裕がないと、多くのものを受け取っていることに気付けなくなります。
そんなときこそ、相互関係の中で自分は生かされている、ということを思い出しましょう。「小さな幸せ」を受け取りあえる、寛容な心に戻れるはずです。
そんなときこそ、相互関係の中で自分は生かされている、ということを思い出しましょう。「小さな幸せ」を受け取りあえる、寛容な心に戻れるはずです。
あなたもきっと「小さな幸せ」を受け取っています*
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あなたの手の届くところにある「小さな幸せ」は見つかりましたか。どれも当たり前すぎて、その存在に気付くことがなかっただけなのです。想像力を働かせ、「小さな幸せ」に気付く。そのことが、あなたの人生を幸せに満ちたものへと変えていくのです。