私たちが暮らす日本には、白か黒かでは判別できない、数千もの美しい「色」があります。私たちの祖先は、そんな瞬間の色に名前をつけ、愛でるゆたかなこころをもっていました。桜色や茜色など、暮らしの中で人々の心を動かしてきた伝統色――そのうちのひとつが、ジャパン・ブルーとも呼ばれる「藍色」です。穏やかな晴天のような水色から、夜の海のような深みのある青。ひとつの名前では括れないほど、藍の表情は豊かです。
最古の染料とも呼ばれる藍ですが、日本で普及するようになったのは江戸時代のこと。藍染めの技術が発展したことや、木綿の普及により、衣料を中心に暖簾や手ぬぐいなど、人々の暮らしを彩るようになりました。
地域でも貴重な存在。100年続く染色工場
高城染工の4代目代表、角南(すなみ)浩彦さん
奥様の角南真由子さん。ショップや展示会などでお客様と接する傍ら、自ら染めの作業もおこなっています
藍は“生きている”
趣ある土間を抜けて案内されたのは、大正時代の木組みが残る工場。ぴりっと研ぎ澄まされた空気に、よりいっそう、藍の香りが強くなるようです。この気温こそが、藍染めには好条件。温度と湿度が高い夏は、染料がにじみやすく、きれいな青が出ないのだそう。さっそく、麻のスカーフを使った絞り染めの工程をみせていただくことに。
「さて、どうなるか……。ノークレームで(笑)」
そういうと、浩彦さんは迷いのない手さばきで布を染め上げていきます。
まずは布を満遍なく水につけていきます。「普通の染料だと、前処理がすごく大変なんですよ。でも藍染めは、水に濡らして、染料につけるだけ」と浩彦さん
発酵させた染料。表面の泡は「藍の華」と呼ばれるもので、状態の良し悪しを決める指針になります
「これは今、染量が“生きている”状態。葉っぱが生きているので、緑色に染まる力があるんです。それが空気に触れると“枯れて”青くなる。モミジは赤く、イチョウは黄色く枯れるじゃないですか。青く枯れる葉っぱを総称して藍っていうんです。枯れるとだんだん青みが強くなっていくんですよ。水の中に酸素が豊富に含まれているので、そこにあてがうことで、満遍なく空気に触れていくんです」
染料から取り出してすぐの状態。深みのある緑色ですが、すでにところどころが青くなっていることがわかります
撮影している数十秒の間に透き通ったブルーに変化。浩彦さんの「生きている」という言葉を目の当たりにした瞬間です
表面上は濃い紫色に見える染料も、実際の色は写真のようなグリーン
一部、原料が入らないよう、自転車用のゴムチューブでスカーフを縛り、再度染料の中へ。ふだんは素手で作業される浩彦さんですが、この日は直後に白い布を触る作業があったため、手袋を着用
水の中で酸素に当て、水分を絞ったあと、さらに濃度の違う染料に浸けていきます。これを何度か繰り返すと……
そういって浩彦さんがスカーフを広げると、生成り色だった麻にぱっとグラデーションの花々が並びます。その美しさは、思わず歓声を上げてしまうほど。浩彦さんの頭の中には、100以上もの柄のパターンがあるのだそう。工房の隣の土間には、今まで手がけた暖簾が飾られています。
「逆に、柄のほうが簡単なんですよ。なるようになるというか。僕は無地の藍染めが一番好きなんですけど、ムラになってはいけないので、無地染めが一番難しいんです」
土間には美しいブルーの暖簾がずらり
浩彦さんが最初に染めた暖簾。繰り返し洗うことで、生地に破れやほつれなどはありますが、20年近く経った今もあざやかな色を保っています
「藍染めっていうと、コテコテの絞り柄が入っていたり、その技術がすごいみたいな風潮があると思うんですけど、主人は『色自体に魅力があるし、ほかの染料と比べても藍が一番。未だに読めないところもあるし、本当にいい色だ』っていつもいってるんですよ」
藍染めを“仕事”にするために辿ったまわり道
「やっぱりね、特別なイメージはありました。藍染めっていうのはすべての基本であり、みんなが憧れる。でも、それが仕事にはならないよなって、どこかで思っていました。父親も『こんな仕事は儲からんし、もう……』っていうスタンスだったので。今はそれが仕事として成り立っているので、すごく幸せなことだなあって思います」
しかし、浩彦さんが藍染めを「仕事として成り立たせる」までの道のりは、決して「家業をそのまま継承した」という平坦なものではありませんでした。高校の校則が厳しかった反動もあり、何か面白いことがしたいという思いがあった浩彦さんは、群馬の美術短大を卒業後、東京の広告系デザイン事務所に入社。しかし、バブルが弾けた影響で、ある日突然会社が倒産してしまいます。アパレルメーカーの知人を頼って紹介されたのは、東京・高井戸の染色工場。座り仕事の地道な作業が続くデザイナー業に疲労を感じていた浩彦さんは、「肉体労働のほうがいい!」という理由から染色工場に就職することに。おもに化学染料を扱う工場で、天然藍を使用した手染めをおこなう現在の高城染工とは真逆の環境。しかし浩彦さんは、その工場での経験こそが、今の手仕事に活かされているといいます。
染物はよく「色移りが心配」という声を聞きますが、高城染工のアイテムは最初の1~2回単品洗いすれば、その後色移りすることはありません。それは、長年の経験を活かした独自の染料の調合と、時間をかけてじっくりと手染めすることで色をしっかりと定着させているから。人の手でひとつひとつ染められたアイテムには、「藍染めはもともと野良着に使われていた。ふだん使えなければ意味がない」という、浩彦さんの思いが反映されているのです。一見相反するもののように思える「手仕事」と「化学」ですが、そこに思いがあれば、共存していくことができるのかもしれません。
「面接のとき、咄嗟に『実家が染色工場で、いつかは継ぐことも考えているので修行させてください』っていったことはたしかにあったんですけど(笑)。そのころは父が高城の代表でしたが、最後のほうは仕事がなくなって、『自分の仕事もないのに継ぐとかいうレベルじゃないだろ』って感じだったので、自分が継ぐことになるとは思っていなかったですね」
創業当時から残る看板
浩彦さんが描いた真由子さんの肖像
ショップや工房内には、ニューヨーク時代に描いたドローイングやトルソーが飾られています
「(戻ってくる気は)あったんじゃないの?色々みてると、どこかで『俺、長男だから』みたいなところは、口ではいわないですけど、持っていた感じはするので……」
お話している中で、その時々の転機を「流れ流れて」と口にする浩彦さん。しかし、現在の高城染工の揺ぎ無い染色技術は、浩彦さんが高井戸の工場で学んだ基礎があったからこそ。そして、年齢を問わず着られる「blue in green」の美しいラインは、ニューヨークで勉強したレディースのパターンが活かされています。一見ばらばらの道を辿っているようでも、浩彦さんの心の中には、「藍を絶やしてはならない」という1本の筋道がしっかりと出来上がっていたように思えます。
「下請け工場」からオリジナルブランドへ
「そのころにはもう家業がもうへこんで、このまま家も潰して廃業の手続きを……という感じだったので、それはもったいないなと。僕が継ごうと思ったというよりは、ただただ『もったいない!』という気持ちが強かったです。せっかくここまで頑張ったのに、って」
「メーカーさんも、『藍染めしか知らない』という会社よりは、いろいろな化学染料も知ったうえで、根拠に基づいて提案してくれるのが説得力があるって。そこが納得して、安心していただけていた部分ではありますね。それから、手作業で染める量では、当時うちは全国でも結構多いほうだったと思います。昔ながらの手法だと、1日10枚しか染められないっていうのが、うちでは1日300枚とか……手染めで300枚とか基本的にほかでやってないだろ、みたいな感じで(笑)」
3年前から展開しているオリジナルブランドは、代々下請けの工場だったという高城染工で、初の試み。しかし、家業を継いだ当時、オリジナルを作ることは頭になく「下請けだけでいい」と思っていたという浩彦さん。転機となったのは、知人のバイヤーに誘われた百貨店の催事でした。
「blue in green」のブランド名は、緑から青へと移り変わる藍の特性を表しているだけではなく、大好きなマイルス・デイヴィスの「Blue In Green」という曲にも由来しているのだそう。サックスプレーヤーであるジョン・コルトレーンを聴きながら製品を染め上げる時間は、真由子さんにとって至福のときだといいます
初のオリジナル製品が受け入れられた理由を浩彦さんに尋ねると、「『色がきれいだ』って。それ一本ですね」ときっぱり。もともとものづくりが大好きな浩彦さん。長い下請け時代にもこつこつとデータをとり、藍と向き合いながらより良い“青”を突き詰めてきた熱意が報われた瞬間でした。
人との対話の中で、褪せない色を届けていきたい
「丈夫で、長く着られて、流行に左右されない服。ターゲットはご婦人向けっていうのは変わらないですけど、前よりも幅広く、30~60代の人まで体型をカバーできて、軽くて、動きやすい。そんな服を目指しているんですけど。親子で着られている方も多いですね」
また、現場でお客さんと話す機会が多い真由子さんもこう話します。
「ご年配の方ってなかなかおしゃれ着の幅が少ないので、そこで結構需要があるのかなって。主人に代わってからは男性目線も入った服を作っているので、最初はお客さんも『えーっ、こんな形着たことない!』っておっしゃるんですけど、結果としてそれを選んでくれて、新しい自分を発見したり、皆から褒められたり、そういってもらえるような服に変化してきましたね。ご年配の方でも、洋服や、着ること自体を楽しむとか、そういう人をちょっとずつ増やしていけているのかなあって」
「自転車で地域を回れば生地が揃うくらいなので、服づくりにおいては本当に楽な街ですね(笑)。旧式のシャトル織機で織ったものは、軽くてしっかりしているので、触っただけで自然とそういう生地を選ぶことが多いです。良い生地が多くて選べなくて、同じ型で何十種類の生地を使って作ったこともありました。海外に振ってしまえばそのまま出来上がってボンッと降りてきますが、人とのつながりっていうのがまったく無くなってしまう。地域で循環していったほうがみんなでハッピーになれるし、時代に逆行しているようなんですけど、その辺のアナログさみたいのはこれからも続けていきたいと思っています」
オリジナルブランドを始めたことで、下請け時代にはなかったお客さんからのレスポンスもあり、それが何より励みになっていると、お二人はうれしそうに噛みしめます。そんなお客さんの反応ややり取りも、着る人や周囲の人のことを考えて作られている高城染工のアイテムがあってこそ。
同じブルーでも、肌や髪の色で似合う「藍」が変わってくるのだそう。どんな人でも着られるよう、すべて1サイズで展開
「うちのお洋服は、すべて染め直しができるんです。白って汚れやすいから皆さん敬遠されるんですけど、染め直しができるということで、ガンガン着てもらってます(笑)」
静かに、力強くそう話してくれた浩彦さん。お二人のそんな思いが通じてか、白や生成りのアイテムは昨年特に人気があったのだそう。まだ何にも染められていないまっさらな生地を見ていると、物を売りたいのではなく、色の素晴らしさを伝えていきたいというお二人の気持ちがにじんで見えるようです。
今後の目標をたずねると、まっすぐと、当たり前のことのようにそう話してくれた浩彦さん。
近い将来、染色技術がどれだけ発達しても、色を「美しい」と感じるのは人の心です。そしてそれを伝えていくためには、やはり人の手と目、美しいと思える心がなくてはなりません。高城染工が100年もの間続いてきたのは、先代、そして浩彦さんたちの「伝えていきたい」という気持ちがあったから。
藍の花言葉は、「美しい装い」。
見た目だけでなく、心まで凛と整うような――高城染工はこれからも、そんなうれしい装いを、私たちに届けてくれることでしょう。
(取材・文/長谷川詩織)
Information:1/20に高城染工の新店舗がOPEN!
2018年1月20日に、高城染工の新店舗がオープン!今まで工房隣のショップや催事、オンラインショップなどでアイテムを展開してきた高城染工。新店舗の場所は、なかなか高城染工のアイテムに触れる機会がなかった人も訪れやすい、岡山市・問屋町です。今回記事で紹介した美しいブルーのアイテムはもちろん、生地そのものを楽しめる生成りや白の洋服を直接手にとれるチャンス!周辺にはカフェや雑貨店が並んでいるので、観光にもぴったり。岡山近隣の方や、旅行で岡山に訪れた方もぜひ立ち寄って見てくださいね♪
■TAKASHIRO SENKO
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岡山県岡山市北区辰巳5-120
☎086-941-1720
かつてはこの一帯に染色工場が軒を連ねたものの、現在では数軒のみに