宮島生まれ、宮島育ちのスペシャルティコーヒー
遥か昔からこの地が「神の島」として崇拝されてきたことにも頷けてしまうほど、不思議な引力を感じる宮島。1400年の歴史を持ち、この島のシンボルとして各地から参拝者が絶えない「嚴島(いつくしま)神社」。かつては「神を斎(いつ)きまる」(※神に仕える)という意味から「伊都岐嶋(イツキシマ)神社」と呼ばれていたのをご存知でしょうか。
今から丁度10年前、この地に「伊都岐」の名前をとった一軒のカフェがオープンしました。立ち上げ当初、ピンとくる名前がなかなか思いつかず、色々な本を調べるうちにこの三文字と出会い、「これだ!! 」と即決したというオーナーの佐々木恵亮さん。今ではこれ以外考えられないほど、不思議とお店にすっと馴染む三文字。これもこの島の神様の思し召しだったのかも……、と考えずにはいられません。
こちらのロゴは3店舗目の「伊都岐珈琲」ができた際に作られたもの。宮島を模るシンプルなラインが印象的です
宮島を闊歩する野生のシカも、伊都岐珈琲の前で立ち止まっていました
「たまたま入ったそのカフェが自家焙煎をしていて、結構本格的なお店だったんですよ。店内に入ったときの印象とのギャップに興味が沸いて、アルバイトで働かせてもらうことになりました」
こつこつと貯めたお金で小さな焙煎機を買い、家の換気扇の下で豆を焼く。ますますコーヒーの奥深き世界にどっぷりとのめり込んでいった佐々木さん。卒業と同時に、この地で独立することを決めました。三年間のアルバイト経験は、開業時の大きな自信に繋がったといいます。
一店舗目の「伊都岐」。木を基調とした最低限のインテリアが並ぶシンプルな内装。コーヒーと真に向き合うことができます(画像提供:伊都岐珈琲)
「お客様にどこまで楽しんでいただくかっていう観点がありまして。お魚でも、刺身が好きな人もいれば煮付けが好きな人もいるので、すべてを刺身で出すということはしません。『うちの味はこれだ!!』っていうのはあまりないかなって。一言にスペシャルティコーヒーとはいっても、第一に素材に合わせた味で提供していくっていうことは意識していますね」
イタリアンバルをコンセプトにした2店舗目の「sarasvati」のケーキセットはお客さんにも人気が高い。コーヒーだけでなく、食事に関してもとことん探求されています
「宮島」という地に選ばれて
4店舗目の「天心閣」からは、重要文化財である五重塔を眺めることができます。元々は「天心閣」というお屋敷だったそう。店舗用に改装後、お屋敷の名前をそのまま残しました。春夏秋冬と、美しい景色を楽しみながらコーヒーを飲むことができる人気の席です
「僕、大学生のときに宮島で人力車をやっていたんです」と、すこし照れくさそうに笑う佐々木さん。
大学時代、佐々木さんの友人数名が人力車の個人事業を立ち上げました。佐々木さんもカフェでアルバイトする傍ら週に一度のペースで宮島に通い、事業を手伝うことに。
「そのとき割と島のおじさまたちに可愛がっていただいたんです(笑)。大学を卒業するときも人力車は続けていたんですけど、すでに独立を考えていたので島の人たちにもいろいろ相談に乗ってもらっていて。その当時本当によくして頂いていた方が『空き家があるからそこを使っていい』といってくれて。一店舗目の『伊都岐』はその方の持ち家を改装したものなんです」
伊都岐珈琲の店舗は、お土産屋さんなどが並ぶ賑やかな表参道商店街からすこし外れた、「町家通り」という路地裏に位置しています。路地を奥にいくと「観光地」の裏に隠れて昔からの民家が並び、島の人々の“普通の暮らし”が垣間見れます。実は最近お子さんが生まれたという佐々木さん。近所の人たちが何かと子どもを気に掛けてくれ、今はそれがとてもうれしい。
「居心地がいいんですよねえ」
町を眺めながら、愛おしそうに目を細めます。
「元々は島から一般のお客様へ向けて発送していたんですけど、なかなか難しい部分も痛感しまして。カフェだけだったら島の中だけで完結するんですけど。宮島口にお店があることで、注文を受けてからお客様の元に製品が届くまでの時間が短縮されました。『伊都岐珈琲factory』を作ってからは、広島市内の会社さんともお付き合いしていくことが可能になったんです。でも、未だに自分の中でカフェとしての認識もすごくあって。それはお客様の捉え方次第というか、こだわりは特にないんですよ(笑)」
そういって、柔らかい笑顔を見せてくれました。佐々木さんが島を選んだというよりも、この島ならではの不便も良さも受け入れ、順応していける佐々木さんだからこそ島に選ばれた。なんだか、そう考えるほうが自然な気がします。
美味しい一杯は淹れる人の幸せから
取材中にも、日差しが降り注ぐ店内と同じくらい明るく、接客中のスタッフの方の声が響きます。
「当たり前ですけど、全店共通で挨拶と笑顔は特に大切にしていますね。やっぱり自分たちも、変に着飾ってすましたりせず、働く人たちにも本当に楽しんでもらえるといいなと思っています」
伊都岐珈琲は、一番遅くても19時には全店がクローズ。当初は12時から24時までお店を開けていたそうですが、営業時間には、佐々木さんの考えるお店の在り方が深く関係していました。
閉店後、町で散歩をしている観光客を見かけることも多いという佐々木さん。今でも、そんな人たちのために「夜に店を開けてあげたい」という気持ちがないわけではありません。
「うちでは、その一歩上を行きたい、と思っていて。今度結婚する男性社員がいるんですけど、そういう人が『結婚するから退職する』ではなく、『結婚するからさらに仕事に身が入る』というふうに良い循環を作っていきたいんです。今いる皆で、もっとお店をよくしていきたい。コーヒー業界の労働環境の改善といいますか、それが今後新しく挑戦していくべきことかな、と思います」
お客さんだけではなく、働く人のためにも会社は存在する。それが佐々木さんがお店を経営する上での重要なポリシーです。19時にお店を切りあげて、朝・昼・晩としっかりご飯を食べる。食べ物は身体を作り、暮らしはその人を表します。だからなのか、お店に入った瞬間のスタッフさんたちの笑顔は決して営業スマイルではなく、こちらもつられて笑顔になってしまうのびのびとしたものでした。
反対に、コーヒーで人を不幸にしようと思ったらできるんですよ。極端ですけど、最低な接客で空調も効かせずに、とか(笑)。でも、そんな些細なことでも人を幸せにできる。本当の意味で、『コーヒーで人を幸せにすることができるのか』というところに懸けている部分はありますね」
「僕、この仕事選んで本当によかったなと思うんです」
人を幸せにする一杯は、サーブする側の心も幸せでないと作ることができない。そのベースを作っていくことは、なかなか簡単にできることではありません。ですが、屈託のない佐々木さんの笑顔を見ていると、まず本人が一番にそれを体言しているからこそ、幸せな一杯を淹れることができるのだということがわかります。
「スペシャルティコーヒー」をもっと日常的なものにしていきたい
盆も正月も休むことなく、365日一人で焙煎をしているという佐々木さん。「家族旅行にも一度も行けたことなくて」と少々苦笑い。注文に追われているときもあれば、自ら進んで焙煎するときもある。だけどどんな作業も、やっぱり飽きがくることはありません。十数年前、一人の青年がアルバイト代で手に入れた小さな焙煎機。そこから始まった一杯は、宮島で多くの人の小さな幸せを作るものになりました。現在では島内に留まらず、佐々木さん自らワークショップを開いたり、出張ショップに出向いたり、日々躍進を続けています。ですがまだまだ、やるべきこと、やりたいことはたくさんあるのだそう。
「コーヒーのチェーンが増えたりコンビニで手軽に買えたり、『コーヒーを飲む』と言う習慣は定着してきたと思うんです。でも、地方ではまだまだ『豆を買って家で飲む』というところまで浸透していない部分があると思うので、そこをもっと広めていきたいですね。口にしたことない商品って、食品の場合はなかなか買ってもらえないんですよ。人からもらって一度口にしてみたり、このお店で飲んだらおいしかったから買って帰ろうというふうに、「体験」しないと。そのために、やっぱりカフェって必要なんです。もっと多くの人にコーヒーを楽しんでもらえたら、最高ですね」
すっきりした喉ごしながらコクのあるアイスコーヒーと、二層が美しい濃厚なアイスカフェラテ。夏の二大人気メニューです
豆を袋詰めして店頭販売する数は少なめ。「今」良いものを決めてすぐお客さんにすぐ提供できるよう、その場で袋詰めをすることが多いのだそう
「決して安さが自慢ではないんですけど(笑)、業界内では割とリーズナブルな価格だと思います。“スペシャルティコーヒー”って、言葉としては“特別なコーヒー”ですけど、その敷居を上げすぎたくなくて。もっと日常に根ざしたものにしていければ、と思っています」
人懐こい笑顔とは一転、コーヒーと向き合っているときの佐々木さんの表情は、思わずこちらも息を止めて見てしまうくらい真剣そのものです
種子からカップまで、一貫した体制・工程で品質管理が徹底していること。
日本スペシャルティコーヒー協会の「スペシャルティコーヒー」の定義には、こんな言葉が添えられています。
「from seed to day」
伊都岐珈琲のスペシャルティコーヒーを表すのであれば、カップのその先の日常や笑顔までもが見えるような、こんな言葉がふさわしい気がします。沈んだ気持ちの日も、なんてことのないブレイクタイムにも。コーヒーを飲むことでその人にとっての時間がすこしだけ特別なものであれば、どんな一杯もスペシャルティコーヒーになるのだと、佐々木さんのコーヒーは教えてくれます。
気負わず、形式や味にとらわれず、コーヒーと過ごすその時間を自由に楽しもうとするスタイル。
コーヒーカルチャーのフォースウェーブは、すでにここ宮島から始まっているのかもしれません。
(取材・文/長谷川詩織)
オーナーの佐々木恵亮さん