インタビュー
vol.108 弘前こぎん研究所 
北国生まれの美しい手仕事を継のカバー画像

vol.108 弘前こぎん研究所 
北国生まれの美しい手仕事を継ぐ

写真:岩田貴樹

「こぎん刺し」は青森県津軽地方の伝統工芸品。ひし形で構築されたこの美しい刺し子は、国内外で高く評価されています。しかし、文化の発祥には北国に暮らす人々の悲しい歴史が関係していました。きびしい環境の中でも、暮らしのなかに楽しみをみつけた津軽の人々。その心の強さは、今も脈々と手仕事に受け継がれています。今回は、約80年ものあいだ調査と復興を支えてきた「弘前こぎん研究所」を訪れました。

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2020年04月17日作成

北国が生んだ「こぎん刺し」の歴史

vol.108 弘前こぎん研究所 
北国生まれの美しい手仕事を継ぐ
  醜い「こぎん」はない。一枚とてない。捜しても無理である。

これは、民藝運動の父と呼ばれる柳宗悦氏が、機関誌『工藝 14号』(昭和7年発行)に記した一節です。津軽地方の伝統工芸「こぎん刺し」は、ひし形の基礎模様「モドコ」を組み合わせて作る刺し子の一種。織物と見まごうほどに繊細な幾何学紋様に魅せられた柳氏は、言葉を尽くしてその手仕事を讃えています。日本各地の伝統工芸は、生活の中で生まれ、受け継がれてきたもの。「こぎん」もまた、津軽の風土と人々の暮らしが深く関係していました。

こぎんの誕生

弘前城と岩木山。桜の季節にはたくさんの観光客が訪れる(写真提供:弘前市)
出典:www.city.hirosaki.aomori.jp

弘前城と岩木山。桜の季節にはたくさんの観光客が訪れる(写真提供:弘前市)

こぎん刺しの誕生は江戸時代初期。日本で木綿の栽培が拡大するなか、寒冷地の津軽では綿花が育たず、繊維は自家栽培の麻糸でまかなっていました。貴重品である木綿の衣類を着用できるのは、武士など一部上層階級のみ。旧津軽藩の管理下におかれていた農民は、1724(享保9)年の「農家倹約分限令」により、裏地にいたるまで木綿の使用を禁じられていたのです。
比良野貞彦『奥民図彙(おうみんずい)』1788(天明8)年発行。津軽藩士であった著者が津軽の習俗を紹介している。左ページにはこぎん刺し着物を着た農婦が描かれている

比良野貞彦『奥民図彙(おうみんずい)』1788(天明8)年発行。津軽藩士であった著者が津軽の習俗を紹介している。左ページにはこぎん刺し着物を着た農婦が描かれている

同書には、3種類のこぎんのデザインも描かれている。図の横には「サシコギヌ 布を糸にて様々な模様に刺すなり、其見事なり、男女ともに着す。多くは紺地に白き糸を以って刺す」とある。江戸育ちの著者とって、津軽の農民の文化は好奇心をかきたてるものだった

同書には、3種類のこぎんのデザインも描かれている。図の横には「サシコギヌ 布を糸にて様々な模様に刺すなり、其見事なり、男女ともに着す。多くは紺地に白き糸を以って刺す」とある。江戸育ちの著者とって、津軽の農民の文化は好奇心をかきたてるものだった

夏に重宝される目の粗い麻布も、北国の長い冬を越えるにはどれほど心許なかったことでしょう。それでも、津軽の女性たちは「家族がすこしでも暖かく過ごせるように」と知恵を絞ります。日常着や野良着の布目を麻糸で刺し埋め、保温性と強度を上げる。この「刺し小布(こぎぬ)」が、こぎん刺しの原点です。人々は暖かい木綿にあこがれを抱きながら、きびしい冬を耐え忍びました。

「津軽こぎん刺し」の発展

(写真提供:弘前こぎん研究所)

(写真提供:弘前こぎん研究所)

江戸後期になると、藩は経済政策のひとつとして手織木綿の内職を奨励。下級藩士の妻女は、藩から貸し渡された篠巻綿で木綿を織り、余ったすこしばかりの綿糸で麻布を刺し綴るようになりました。このことが、「弘前手織」や「津軽こぎん刺し」など現代にまで続く文化を生んだといえましょう。やわらかい綿糸は麻糸よりもはるかに刺しやすく、それぞれの地域で独自の美しい紋様が発展していったのです。

基本のモドコ(=もとになるもの)

縦の織り目に対して一・三・五・七……と奇数目を数えて刺すこぎん刺し。模様の基礎となるモドコは、農民にとって身近だったものがモチーフになっています。津軽弁では名詞のあとに親しみを込めて「こ」をつけることが多く、モドコの名前にも多く見られます。現在は、模様を確実に刺すために方眼紙のうえに線を入れた設計図を使いますが、昔は口伝えや見様見真似で刺していたとか。頭の中で模様を組み立て、独自のデザインを生み出す……その想像力の豊かさに驚かされます。
1.カチャラズ(カチャ=裏。2を裏返すとできる模様で「かちゃ・あらず=裏ではなく模様だよ」という意味)、2.マメコ、3.ハナコ、4.イシダタミ、5.ムスビバナ、6.四枚菱、7.シマダ刺、8.フクベ(ひょうたん)、9.コマクラ刺(木枕)、10.ウロコ形(小)、11.フクベ、12.猫の足、13.猫のマナグ(眼)、14.テコナ(ちょうちょ)、15.ヤスコ刺、16.マメコの四つコゴリ、17.ウロコ形(大)、18.クルビカラ(くるみの殻)、19.ベコ刺、20.ウマのクツワ、21.サヤ形、22.マメコの連続、23、24.竹の節
(写真提供:弘前こぎん研究所)

1.カチャラズ(カチャ=裏。2を裏返すとできる模様で「かちゃ・あらず=裏ではなく模様だよ」という意味)、2.マメコ、3.ハナコ、4.イシダタミ、5.ムスビバナ、6.四枚菱、7.シマダ刺、8.フクベ(ひょうたん)、9.コマクラ刺(木枕)、10.ウロコ形(小)、11.フクベ、12.猫の足、13.猫のマナグ(眼)、14.テコナ(ちょうちょ)、15.ヤスコ刺、16.マメコの四つコゴリ、17.ウロコ形(大)、18.クルビカラ(くるみの殻)、19.ベコ刺、20.ウマのクツワ、21.サヤ形、22.マメコの連続、23、24.竹の節
(写真提供:弘前こぎん研究所)

「猫の足」を半分刺した状態のもの。根気が必要な作業で、ハガキ大でも一週間はかかるのだそう(編集部撮影)

「猫の足」を半分刺した状態のもの。根気が必要な作業で、ハガキ大でも一週間はかかるのだそう(編集部撮影)

地域の個性がわかる3種類のこぎん

農民は木綿糸だけでなく色染めの着物も禁じられていました。結果として、象徴ともいえる藍と白の美しいコントラストが生まれたのです。色を使わずとも個性豊かな紋様を見ると、津軽の女性たちの美意識の高さがうかがえます。
[左]西こぎん。(弘前市西部、現・西目屋村など)緻密な麻布を使っているため模様も細かく手間がかかる。炭を入れた重い袋を担ぐため、肩を紺と白の縞で補強している。

[中央]東こぎん(弘前市東部、黒石市など)。太めの麻糸で織られた布が多く、大胆な柄が特徴。

[右]三縞こぎん(五所川原市周辺)。優れたデザイン性があり、あざやかな太い縞模様が特徴。冷害や凶作に見舞われることが多い地区で、現存する物が少ない。

(写真提供:弘前こぎん研究所)

[左]西こぎん。(弘前市西部、現・西目屋村など)緻密な麻布を使っているため模様も細かく手間がかかる。炭を入れた重い袋を担ぐため、肩を紺と白の縞で補強している。

[中央]東こぎん(弘前市東部、黒石市など)。太めの麻糸で織られた布が多く、大胆な柄が特徴。

[右]三縞こぎん(五所川原市周辺)。優れたデザイン性があり、あざやかな太い縞模様が特徴。冷害や凶作に見舞われることが多い地区で、現存する物が少ない。

(写真提供:弘前こぎん研究所)

娘たちのおしゃれ着に

津軽の平賀町(現・平川市)で撮影された、農村の娘たちの写真。それぞれ個性あるこぎんの着物をまとっている(写真提供:平川市郷土資料館)

津軽の平賀町(現・平川市)で撮影された、農村の娘たちの写真。それぞれ個性あるこぎんの着物をまとっている(写真提供:平川市郷土資料館)

明治初頭の廃藩によって庶民も綿糸を手に入れやすくなると、こぎんの文化はいよいよ花時を迎えます。農家の娘たちは5~6歳で母親から針と糸を渡され、17歳にもなると立派な刺し手に。野良仕事の傍らにも針をすすめ、冬の夜には数人で集まり競ってこぎんを刺しました。他者のすぐれたデザインに刺激を受け、よりよい模様を刺そうと、少女たちはひたむきな情熱を燃やしていたのでしょう。
(写真提供:平川市郷土資料館)

(写真提供:平川市郷土資料館)

また、こぎんの着物は祝いの席や祭りなど、特別な場の装いでもありました。二十歳を迎えるころには、とっておきの着物数枚を持参し、嫁入り道具のひとつとしたそう。苛酷な制約のもとで生まれたこぎん刺しですが、津軽の女性たちにとって唯一の自己表現であった針仕事は、心躍る幸福な時間だったのです。

こぎん刺しの衰退と復活

大正末期ごろの青森駅(写真提供:青森県所蔵県史編さん資料)
出典:www2.i-repository.net

大正末期ごろの青森駅(写真提供:青森県所蔵県史編さん資料)

再ブームに火を付けた民藝運動

しかし、文化の繁栄は儚いものでした。明治中期、青森と東京を結ぶ鉄道が開通し、安価な木綿布が移入されると、人々の衣類は絣や手織に。役割を失った美しい刺し子着は、しだいに忘れ去られていきました。

かつての刺し手も高齢になり、こぎん刺しが廃れてから久しい昭和初期のこと。ふたたび、その手仕事が注目を浴びるときが訪れます。こぎん刺しの美しさに感銘を受けた柳宗悦氏は、前述の『工藝 14号』で特集を組み、「地方工芸の最たるもの」と絶賛。これをきっかけに、収集家や民俗学者の間で失われかけたこぎんの足跡を辿る活動がはじまります。戦後には、地元・弘前市で「こぎん振興会」が結成され、小学校では家庭科の授業でこぎん刺しを教えるなど、地域が誇る工芸品としてよみがえったのです。

復興を支えた「弘前こぎん研究所」

「弘前こぎん研究所」が入所する白亜の建物は、日本を代表する建築家・前川國男の処女作。​2003年6月には国の登録有形文化財に登録された。翌2004年には、「DOCOMOMO100選」に選定された

「弘前こぎん研究所」が入所する白亜の建物は、日本を代表する建築家・前川國男の処女作。​2003年6月には国の登録有形文化財に登録された。翌2004年には、「DOCOMOMO100選」に選定された

手芸やアート作品など、現在のようにこぎんが広く親しまれるようになったのは、「文化を絶やすまい」とバトンをつないできた人たちがいたから。

半世紀以上にわたりその一翼を担ってきた「弘前こぎん研究所」には、今日も全国から観光客が訪れます。同社の前身である財団法人木村産業研究所は、『工藝』でこぎん刺しの特集が組まれた昭和7年に設立されました。当初は地域産業発展のため羊毛を使ったホームスパンを手掛けていましたが、昭和37年に現社名に改名。柳宗悦氏の後押しもあり、それまで職員が続けてきたこぎん刺しの研究に専念することに。
昭和7年に施工された建物は、ほぼ当時のままだという。時の流れを感じさせないモダンな雰囲気

昭和7年に施工された建物は、ほぼ当時のままだという。時の流れを感じさせないモダンな雰囲気

研究所は見学可能(要予約)

研究所は見学可能(要予約)

「弘前こぎん研究所」の初代所長・横島直道さんは、地元の陶芸家・高橋一智氏とともに、資料収集やパターンの整理に力を注ぎました。こぎんを刺していた最後の世代を訪ねては実技を習い、地道に記録を続けたことが実を結び、研究所で保有している模様は600種類以上。現在では、織りから縫製まで約200人の女性の手でこぎんの製品が生み出され、青森の地場産業に貢献しています。
衣類が貴重だった時代、一着の着物を大切に着ていた。写真は「二重刺し」と呼ばれるもの。生地が弱くなってくると、模様の隙間をさらに糸で刺し埋めて補強した

衣類が貴重だった時代、一着の着物を大切に着ていた。写真は「二重刺し」と呼ばれるもの。生地が弱くなってくると、模様の隙間をさらに糸で刺し埋めて補強した

こちらは「染めこぎん」と呼ばれるもの。着ているうちに白糸が汚れてくると、藍で染め直した。また、白く鮮やかな紋様は若さの象徴であり、年配者が着用していたことから「アバ(老人)こぎん」とも呼ばれる

こちらは「染めこぎん」と呼ばれるもの。着ているうちに白糸が汚れてくると、藍で染め直した。また、白く鮮やかな紋様は若さの象徴であり、年配者が着用していたことから「アバ(老人)こぎん」とも呼ばれる

こぎんを次の世代へ。三代目所長の挑戦

弘前こぎん研究所三代目所長・成田貞治さん

弘前こぎん研究所三代目所長・成田貞治さん

今回、まっ赤なこぎんのネクタイを締め、朗らかな笑顔で迎えてくれたのは、三代目所長の成田貞治さん。二代目である父・成田治正さんの跡継として、昭和57年に就任しました。

「父は、県の工業試験場で窯業を研究する職員でした。その後は福島県で働いていましたが、以前から親交があった横島さんに『引退する時にはこぎんを頼む!』と、頼まれていたそうです。約束を果たす形で定年退職後にUターンして、ここに入所したんですね。そのうち父も高齢になり、『跡取りとして一緒にやってみないか』と私に声がかかったのですが、まったくやる気がなかった(笑)。当時、私は東京で電気工事の仕事をしていて、仲間と新しい会社を立ち上げようとしていたところで。高度経済成長期の影が見えてきたころでしたからね、一念発起してがんばろうと思っていたんです。同僚に相談したら『親の顔を立てると思って2、3年行ってこい』って(笑)。本当に短期間のつもりだったんですよ」
2階のアトリエでは裁断や仕上げ作業がおこなわれている。こぎんを刺すのは内職のお針子さんがメインで、現在130人ほどの登録がある。農家の女性も多く、繁忙期により稼働に変動があるため月に20人ほどでローテーションを組む。初回は2日間の講習を開き、製品のクオリティが統一されるよう努めている

2階のアトリエでは裁断や仕上げ作業がおこなわれている。こぎんを刺すのは内職のお針子さんがメインで、現在130人ほどの登録がある。農家の女性も多く、繁忙期により稼働に変動があるため月に20人ほどでローテーションを組む。初回は2日間の講習を開き、製品のクオリティが統一されるよう努めている

1969年に入所した三浦佐知子さん。2003年青森県伝統工芸士に認定されたこぎんのプロ。多数の講習などで講師を務めている

1969年に入所した三浦佐知子さん。2003年青森県伝統工芸士に認定されたこぎんのプロ。多数の講習などで講師を務めている

入口付近のショーケースには、こぎんのベストを着た若かりし成田さんの写真が

入口付近のショーケースには、こぎんのベストを着た若かりし成田さんの写真が

男社会から一転、女性に囲まれた職場で、はじめは戸惑いもあったという成田さん。それでも、周囲の励ましもあり、「続けたい」という気持ちが芽生えていきます。研究所の女性に歴史や刺し方も習い、すすんで勉強をはじめました。

「間もなく父が入院して、途中からは自分の仕事として切り替えました。真面目に、本業としてね(笑)。今、こぎんは伝統工芸っていわれていますけど、昔から伝えられてきたものを、私はただ『預かっている』だけ。だから私の代で潰さないように頑張って、あとに繋げるのが使命だと思っています」
こぎん刺しの着物帯。布目を張りを保ちながら刺していくため、熟練の技が必要

こぎん刺しの着物帯。布目を張りを保ちながら刺していくため、熟練の技が必要

帯に使用するのみ、昭和17年から使われている織機でつくられている

帯に使用するのみ、昭和17年から使われている織機でつくられている

研究所で使用する麻布は、年に一度、外部の工場へ発注。当時のこぎん刺しを忠実に再現するため、布目が縦長になるよう特注している

研究所で使用する麻布は、年に一度、外部の工場へ発注。当時のこぎん刺しを忠実に再現するため、布目が縦長になるよう特注している

布目が切れていると模様が作れないため、光にかざして入念にチェック

布目が切れていると模様が作れないため、光にかざして入念にチェック

初代所長の横島直道さん、陶芸家の高橋智一さんらは、方眼紙に記録しながら模様を分析した。現在も新しい図案がつくられている

初代所長の横島直道さん、陶芸家の高橋智一さんらは、方眼紙に記録しながら模様を分析した。現在も新しい図案がつくられている

それまでは内部での調査がメインでしたが、成田さんの入所後はデパートなどの催事に出展することも増えました。成田さんが「販路をつくろう」と声をあげ、市や県の事業にも積極的に参加し、新しい風を吹き込んだのです。今も、こぎん刺しをたくさんの人たちに広めるべくワークショップを開き、アジアやヨーロッパなど国内外を飛び回っています。
裁断作業。簡単そうに見えて、直線に切るのは至難のワザ。「私にはできない(笑)」と成田さん

裁断作業。簡単そうに見えて、直線に切るのは至難のワザ。「私にはできない(笑)」と成田さん

布に折り目をつけて、中心から刺しはじめる。すこしでも狂うと、模様が構成できなくなる

布に折り目をつけて、中心から刺しはじめる。すこしでも狂うと、模様が構成できなくなる

手のひらサイズのポーチ。柄や色の組み合わせによって雰囲気が変わるため、選ぶのが楽しい

手のひらサイズのポーチ。柄や色の組み合わせによって雰囲気が変わるため、選ぶのが楽しい

人気のショッピングバッグ。総刺しや模様の追加など、ほとんどの製品がセミオーダー可

人気のショッピングバッグ。総刺しや模様の追加など、ほとんどの製品がセミオーダー可

ワンポイントが可愛いミニ栞

ワンポイントが可愛いミニ栞

また、新商品のアイデアを出すため、月に一度のミーティングも欠かしません。研究所では、伝統的な奇数率の刺し方や基礎模様はそのままに、財布やバッグなど120点以上のアイテムがあるのだとか。赤・黄・緑、草木染を使った華やかなカラーも、こぎんの表情をより個性豊かにしています。

「伝統工芸っていうものは、商売として成り立たないと結局どこかで消えてしまう。今やっていることはこぎんの文化を維持するために必要なんです。あとは技術を向上させていけば、絶えることはない。みんなで熱を持ってやれば、おのずと続いていくはず」
vol.108 弘前こぎん研究所 
北国生まれの美しい手仕事を継ぐ
伝統を大切にしながらも、現代の暮らしに寄り添う新しい形を模索してきた弘前こぎん研究所。「土産品」の枠を飛び越えて、近年は全国のセレクトショップにも展開し、若い世代のこぎんファンを増やしています。

研究所の歴史を終始にこやかに話してくれた成田さんですが、他社の借金を肩代わりして連鎖倒産の危機に陥ったこともあったのだそう。会社の略歴を確認しながら「いつごろのことですか?」とたずねると、さらりと笑って答えます。

「それは書いてないんだよなあ(笑)。代表になってすぐだから、今から20年以上前。15年かけて返済したけど、後始末を見ずして親父は先に逝っちゃった。当時は大変だったしみんなに心苦しく思ったけど、いろんな仕組みを覚えたし、そのことがあって今があると思っています」
他社と共同制作することも。こちらは催事で意気投合したメーカーと制作したスリッパ

他社と共同制作することも。こちらは催事で意気投合したメーカーと制作したスリッパ

研究所の入口には県や市からの表彰状が所狭しと並べられている

研究所の入口には県や市からの表彰状が所狭しと並べられている

苦しいときも、地に足をつけ、目の前のことにじっと向き合う。成田さんもまた、津軽人の強さを持ち合わせているのでしょうか。

「これからは、こぎんで壁面を飾ったり、内装やインテリアの仕事をもっと増やしていきたい。そういうのは『遺るもの』でしょう」

成田さんは前を向いて、新たな夢を話してくれました。

繋がれていく手仕事の魂

こぎん歴をたずねると「まだ新人です(笑)」と、茶目っ気たっぷりに答えてくれたスタッフさん

こぎん歴をたずねると「まだ新人です(笑)」と、茶目っ気たっぷりに答えてくれたスタッフさん

失われるはずだったこぎんの文化は、多くの人を魅了し、次の世代へと繋がれてきました。設立80年を目前にした弘前こぎん研究所でもまた、そのバトンが渡されようとしています。

四代目所長として研究所を継ぐべく日々奮闘しているのは、成田さんの娘・千葉弘美さん。こぎん刺しは小さい頃から身近な存在で、アトリエにもよく遊びに来ていたのだそう。歴代初の女性所長は、新しいこぎんの世界を開いていきます。
専務取締役・千葉弘美さん。内職のお針子さんに送る指示書と材料を確認中。それぞれ得意分野があるため、アイテムの特性を見極めながら発注する

専務取締役・千葉弘美さん。内職のお針子さんに送る指示書と材料を確認中。それぞれ得意分野があるため、アイテムの特性を見極めながら発注する

「まだ実感がないというのが本音なんですけど、催事などを手伝ううちに『自分が継いでいくんだ』という気持ちがすこしずつ強くなりました。ベテランのスタッフやお針子さんもいるし、周囲の人が束になって会社を盛り上げてくれるので、不安はないです。現状維持するだけではなく、新しい人も入れて技術の後継もしていきたい」
vol.108 弘前こぎん研究所 
北国生まれの美しい手仕事を継ぐ
多くの人によって現代に手渡されたこぎん刺しは、今なにを語るのでしょう。
長い冬の夜、女性たちはそのひと針ひと針に救いを求めました。それぞれは小さな模様でも、手を止めないでいればやがて大きなものになる。少ない灯りの下で、時間を忘れて刺す手元のこぎんだけは、たしかに輝いてみえたのです。

苦しい日々の中にも、ささやかなよろこびを見つける。きっと誰もが、その力を持っている――名もない津軽の女性が生んだ手仕事は、今も私たちに静かに語りかけてくれます。

(取材・文/長谷川詩織)
■参考文献
田中忠三郎『みちのくの古布の世界』河出書房新社, 2009.
富山弘基「伝統染織新紀行7」『月刊染織α』No.235,染織と生活社,2000.
柳宗悦「こぎんの性質」『工藝』14号,聚楽社,1932.

■資料協力
弘前市役所
青森県環境生活部 県民生活文化課
平川市郷土資料館
「弘前こぎん研究所」アイテム一覧
弘前こぎん研究所|ひろさきこぎんけんきゅうじょ弘前こぎん研究所|ひろさきこぎんけんきゅうじょ

弘前こぎん研究所|ひろさきこぎんけんきゅうじょ

昭和17年、財団法人木村産業研究所内に青森ホームスパンとして設立。昭和37年に現社名に改変し、こぎん刺しの研究を続けてきた。現在は自社の製品開発に加え、ワークショップや講演会など、文化を継承していくために精力的に活動している。

公式HP

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