布作家・山中とみこさんの「定番」は、清清しいほどにきっぱりとしていた。
「好きなものはずっと変わらないですね。学生時代から自分のスタイルはトラッドだったので、詰まった襟が好きなんです。胸の開いているものは着たことがなくて」
「CHICU+CHICU5/31」のアイテムたちは、どこか長年連れ添った親友のような、自分にぴたりとくる佇まいが特徴だ。テーマは、シンプルな中に、“少しだけ”個性やおしゃれ感がある、「大人の日常着」。買ったばかりの洋服特有の肩肘を張るような窮屈さはなく、何年も着ていた服のように自分に馴染む。着る人に余白を与え、それでいて存在感があり、きりっとした洒落っ気も演出してくれる。
「CHICU+CHICU5/31」の洋服は様々な体型の人に着てもらえるよう、すべてフリーサイズ(画像提供:CHICU+CHICU5/31)
生地は、「自宅で洗濯できるように」というこだわりがあり、使用する布は一度洗ってアイロンがけをし、立ててから服にする。のちに洗うことを考え、必ず縮率を計算してパターンを作るなど、着心地や質感に対しての徹底されたこだわりがある。
最近作った中で一番お気に入りだというベスト付きワンピース
前ボタンを開くと中にベストがくっついている。羽織として、ワンピースとして、ベストのボタンは閉じたままボトムスを楽しむなど、三通りの着こなしが楽しめる
真紅のラインがすっと入ったネイルがスタイリングに映える
原点は「空間をつくること」
以前は自宅で作業をしていたが、現在はこちらのアトリエを使用。この場所で展示を開くこともある。アトリエ内には、山中さんが今まで集めてきた味のある「古いもの」たちが並ぶ
「当時はみんながみんな裕福な時代じゃなかったから。自分のほしいものが“ない”なら、好みの布を買って作るしかなかったんですよね、下手ながらも(笑)。70年代の食器や家具、雑貨って、花柄とか、カラフルな色やポップなデザインが流行っていたから、既成のカーテンといえば派手だったりゴージャスなものしかなくて、それにすごく抵抗を感じていたんです。もっとシンプルなものがいいのに、って」
青森県出身の山中さんは警察官だった父を訪ね、しばしば三沢市内にある米軍基地の駐在所へ通うことがあった。その道中で、幼いころの山中さんは目を輝かせたという。
「基地の人たちが住む街をバスで通って行くんですけど、夢みたいな平屋の住宅街がぶわーって広がっていて。そこだけ外国なんですよね。ふだん自分が目にしている光景とのギャップが、子どもながらにもう痛烈で。なんでこんなに違うんだろうって。入ったことはないんですけど、その先に憧れの世界が広がっている気がしたんです」
ジョン・レノンとオノ・ヨーコの名盤「ダブル・ファンタジー」。ビートルズ世代のご主人は、今もバンド活動を続けているのだとか。60年代に青春を過ごした人たちの「何事にも全力投球な姿勢」を、山中さんは少し羨ましく思っている
故郷の青森県から大学進学のため上京したのは、昨年、一時休業した渋谷PARCOのパート1が開業された1973年。その少し前には、『non-no』や『an・an』といった女性ファッション誌から『私の部屋』などのライフスタイル誌が続々と刊行され、世の中が色とりどりに変化を遂げていった時代だった。
「地方にいると雑誌しか情報がないので、すごく憧れがありましたよね。おしゃれな雑貨屋さんも当時はなかったから、上京したときはとても刺激的でした」
そんな小さな“憧れ”のコレクションが、山中さんのなかにはいくつも詰まっている。憧れはやがて、今の自分を作り上げるためのピースになっていった。
蚤の市で“がらくた”に魅せられ、古道具屋の店主に
ある日、まだ歩けない長男を連れ、家族で訪れた東京・新井薬師の蚤の市。そこで目にした数々の古道具の数々――器に家具、雑貨、謎のオブジェまで……それぞれがもつ独特の表情に、心を奪われた。
「たまたま新聞で情報をみつけて、なんの気なしに行ってみようかーって。学生のときから器とかに興味はあって、そのころも現代作家のものは購入していたんです。でも古いものまではちょっと情報がなかったんですね」
そもそも、好きなものはちょっと偏っていた。陶芸でいえば、粉引(こひき)や焼締めなど、ゴツゴツしていてマットな質感の、いってしまえば「きれいじゃない」ものたちに惹かれる。「艶」や「きらびやか」と正反対なそれは、古道具の放つ鈍い輝きと共通していた。
それから、古道具の世界へ走り出すのにそう時間は掛からなかった。子どもから手が離れたのをきっかけに、リフォーム会社の企画・編集に就職すると、すでに古道具屋に通うようになっていた山中さんは、ショールームに古道具を取り入れたり、作家のイベントを開いてはお客さんを呼び込んだ。
「当時、同じマンション内に『食』にこだわりを持つ人たちがいて、無農薬野菜を取り寄せたり、添加物について勉強するグループに参加していたことがあるんです。やっぱりそういう人たちって食だけじゃなく、インテリアや器にもこだわりがあるんですよね。その中の一人に古道具屋をしている人がいて、私もお客さんとして通っていたんです。私が仕事を辞めて展示を開いているときに『だったら、(お店を)やったらいいんじゃない?』って。買い付けに行くために免許を取った方がいいとか、最初は車で一緒に市場に連れていってもらったり、いろいろ指導してもらいました」
当時は、インターネットが普及してない時代。宣伝の手段がわからず、「思ったよりもお客さんがこなくて大変でした」と笑う山中さん。でも、お店に並べるものに関しては、人一倍こだわりがあった。
「高い物は買わないというのが、買い付けのルール。自分なりのつける値段の範囲があるんです。これはこの値段までなら買うけど、それ以上なら無理に買わない。だから、買えないものの方が多かったです(笑)。市場に行っても、そのストレスはありましたね。お金ないとだめなんだなあ…って」
古道具屋で実際に使用していた、懐かしいタイプの黒電話。探し回り、やっとイメージに合うものを発掘した
こちらのステレオもお店に置いていた什器のひとつ。もう音は出ないため、コンポを中に入れてジャズを流していた
「古道具屋をしていたときは、買い付けに行って、持って返ってくる瞬間がやっぱり好きでした。古いものが好きだし、『好き』な目で選ぶから。でもそれを『売れるか売れないか』で選べなかったんですよ。それが、自分の古道具屋の失敗の原因だな、と思います。『売れる』よりも『好き』なものばっかりだったから。宝探しは楽しいけど、それが売れないときついし、売れたら売れたで好きなものを探してくるのもまた大変だし。複雑な感じですね。仕事が嫌だったわけじゃないけれど、勢いでスタートしてしまったぶん、回していくのが難しかったんです」
それからは、母が入院するタイミングで青森に帰り介護をし、落ち着いたらまた関東に戻り……を繰り返す日々。その間、店は一時休業したものの、ついに山中さんは6年ほど続けた古道具屋の閉店を決めた。
「やっぱり、だんだん疲れていったんですね、“回していく”ことに。『お店をやる』っていうのが向いてないんだな、好きなことを仕事にしちゃいけないんだな……って反省して。それで、まったく関係ない仕事をしようと思ったんです、今度は」
子どもたちの自由な感性に触れて知った、ものづくりの楽しさ
「低学年を担当したんですけど、二人ともはじめてだから、生徒たちとスッと打ち解けられたのかなって。変なフィルターがなかったというか。私は『先生』って呼ばれることに抵抗があって、大学のときも教員免許をとらなかったんです。だから、よもやそこで自分が『先生』って呼ばれる立場になるとは思ってなかったんですけど(笑)、すごく楽しかったんですよね」
「私、イメージはあるけど、絵が描けないんですよ(笑)。でも、そのクラスでは『こうじゃないといけないんだ』っていう概念がなかった。貼り絵にしても、大胆にやっていくと結構面白くて、いい感じにできたんです。担任の先生も『すごくいいね』って褒めてくれて。絵心はないけど、別に基礎がなくてもできるんだなあっていうのをそこで教えてもらって、ものを作る楽しさを知って。ああ、自分でものを作る側に立ってみたいなって、初めて思ったんです」
「たすきをかけたり、手を振ったり、色々しましたね。地元だったら知り合いもいて恥ずかしいけど、隣の市だったから(笑)」
サポートの甲斐あってか、お客さんはぎりぎりのところで見事当選。山中さんの想いを知っていたその人は、「次はあなたの番だね」と背中を押した。
洋服作りを始めてから製作した、デッドストックの国産シルクのつけ襟。トルソーの上で、ひと際存在感を放っていた
「ミシンを与えられて、やらなきゃいけない状況にしてくれて、それが洋服を作るきっかけになったの。不思議ですよね。それまでは頻繁に連絡を取り合うような仲ではなかったんですけど、その人も私も『何かを変えたい』と思っていて。たぶん、お互いそういう時期だったんですよね」
母との別れ、「CHICU+CHICU5/31」の誕生
「ちょうどそのころ、自宅のインテリアが雑誌に掲載されることがたまにあって。情報として、洋服作ってるってことにも触れてもらってたので、それも大きいかも。昔は住所を全部書いてたんですよね、雑誌に。個人情報だから、今じゃ考えられないけど(笑)!」
「母には余命のことを伝えてなかったけど、たぶん、知ってはいたと思うんですよね。病院ではなく自宅にいたいということだったので、『何ヶ月かかるかはわからないけど』って主人と子どもに話をして。お店も服作りもお休みして、しばらく実家に帰って自宅介護することになったんです」
「落ちるだけ落ちるんですよね。母が亡くなったときも、同じタイミングでいろんなことがあって、ずーっと泣いていました。それで、一旦はその落ちた状態が続くんですけど、一、二ヶ月して、なんでしょう、だんだんと気持ちが上がってくるんですね。そのパターンです、いつも」
泣いたその分だけ、山中さんの中で新しいイメージはすでに芽吹いていた。お店を開くのは一ヶ月に5日間だけ。自分の洋服だけではなく、洋服まわりの作家さんのアイテムも扱う。制作をしながら、外の展示にも積極的に出よう――このときの構想が、そのまま今のブランドのベースとなった。
その後、「CHICU+CHICU5/31」は少しずつ根強いファンを増やしていった。今では同じアイテムをリピート購入するお客さんもいるほど。ブランドのスタートから10年が過ぎたころ、今まで山中さんが培ってきた縁やイメージが形になり、還暦にして自身の本を出版。その翌年の春には、「senkiya」内に実店舗をオープンさせた。開店記念日は、母の命日だ。
縁があり、親しくしているライター石川理恵さんが企画した書籍。古い布を使ったものづくりの、いろいろなアイディアが詰まっている 山中とみこ『古い布でつくる』主婦と生活社,2014,111p
人にも物にも、いびつだからこその魅力がある
「白」は山中さんにとって特別で、「一番おしゃれだと思う色」なのだとか。シャツは絶対に生成りではなく、パキッとした白だと決めている
「いきなり展示会や個展を開いたり、お店に製品を置いてもらうことは、売る側もかなりの数を売らなくてはいけないし、作り手側も数を作らなければいけない、お互いに結構プレッシャーがかかると思うんですね。なのでその前段階として、自分と作家さんのアイテムを持って、全国のショップに伺いますよーって試みなんです。私はお取り引きするときに、メール一通だけの場合は受けないんです。どんなに有名なお店でも。一度も顔を合わせたことない人の、自分で着たこともない洋服のおすすめを、多分できないでしょう?だったら、一度お会いしてから始めませんか?って。『たんぽぽ綿毛計画』で巡るのも、全部ご縁のあったショップさんなんです」
「一つ買ったら一つ処分するくらいの気持ちで買わないと。でも男の子って収集癖があるからダメでしょう?主人も古い釘から何から全部捨てないから。でも、それが役に立つこともあるんですけどね(笑)」
「私はなんだろう、あんまり過去に執着しないから捨てられるのかも。たとえば器を買っても、おごそかに飾らないで日々楽しんで使うようにしているんです。万が一壊れたとしても楽しんだから、それはそれでしょうがないんだなって」
なるほど、アトリエには古道具が身を寄せつつも余白があり、窓からはしっかりと新しい光を取りこんでいた。
「周りを気にするから人にも厳しくなったり、衝突も多くなったり。こだわりが強ければ強いほど許せなかったりすることも、やっぱり若いころはありました」
でも、と、そんな日々を撫でるように微笑む。
「そういいながらも人が好きだし、普通の人よりも、過去に何かを持っている人に魅力を感じるんですよ。誰からも好かれるような人にはあまり興味がなくて。嫌な面があったとしても、それはそれとして受け止めて。今自分に自信がなくて悩んでいても、神様は絶対に亡くなるときまでに修行の場を与えて、プラスマイナス0にしてくれるんだって想いが、自分の中にいつもあるんです。だから誰かに相談されたら、『絶対に大丈夫なんじゃない?』っていうんだけど。今が悪いほどいいんだよ、先に行く楽しみがあるからって。自分自身もそう思っていたので」
たくさんまわり道をしてみつけた、自分の「定番」といえる生き方。
それは、山中さんの数あるお気に入りの中でも、いちばん大切な宝物だ。
(取材・文/長谷川詩織)
(画像提供:CHICU+CHICU5/31)