駅前でタクシーを拾うと、住所を告げるまでもなく慣れた様子で車を走らせてくれました。
このあたりでは名の通った「田中帽子店」は、明治13年から続く歴史ある帽子工房。国内では岡山県と並んで麦わら帽子の二大生産地である、埼玉県春日部市で、130年以上に渡り麦わら帽子を作り続けています。
一歩足を踏み入れると、香ばしい麦のいい匂い。
それと同時に、ジャー、ジャー、ダダダダダ、カチッ、ダダダダダ……カチッ。と、ミシンと糸を切る音がリズムよく聞こえてきます。この日は生憎の雨でしたが、一面に並べられた麦わら帽子たちを見ていると、まぶしい夏の気配をすぐそこに感じられるようでした。
明治二十五年ごろには、ドイツから手回しミシンを輸入したことで生産量が拡大。それまでの麦稈真田を改良し、現在のような形の麦わら帽子が作られるようになりました。主に農作業用として生産されていた麦わら帽子ですが、高度経済成長期の影響で専業農家が減少。その後、人々の生活に余裕が出はじめ、レジャーなどが盛んになったことで、麦わら帽子は人々の生活の一部となったのです。
麦わら帽子の元となる麦稈真田(ばっかんさなだ)
昔と変わらない手作業で作られる“日本人のため”の帽子
工房内では、園児用帽子、農作業用帽子、レジャー用帽子などが作られていますが、帽子作りの工程は大きく分けて5つ。至ってシンプルなものですが、これは熟練した職人だからこそできる作業。長年の間に身につけた手の感覚で、素早く麦わらを編み上げます。
4代目・田中行雄さん。今でも現役の職人として工場に立ち、帽子作りを続けています
棚一面に並べられた木型の種類はじつに豊富
麦わら帽子ができるまで
1、熟練した職人技が光る「帽体縫い」
最初の作業、「帽体縫い」。麦稈真田をクルクルと円を描くように縫い合わせていきます。この一本が見慣れたあの帽子の形になっていくなんて、工程を知らなければちょっと想像できません。すこしでも間違えれば、麦わら帽子の形は歪んでしまいます。ベテラン職人の高度な技術があってこその工程です
「渦」と呼ばれる頭部の中央から縫い始め(写真左)、皿状(写真右)からだんだんと麦わら帽子の形になっていきます。縫い進めては一瞬ミシンを止め、また動かし……慎重に調整しながらきれいな円を描いていきます
頭部ができあがった後は、角度を変えて筒状に縫います。筒が出来上がると一度型にはめて形を整え、今度は「つば」の部分を縫い進めます。帽子によって手順に差はありますが、これが麦わら帽子の基本的な工程。形の良し悪しを決めるのは、この「帽体縫い」に賭かっているといっても過言ではありません
2、春日部・冬の風物詩「寒干し」
縫い上げた帽体は、空気が乾燥している冬に天日干しして湿気を取り除きます。干すことで編み目が引き締まり、型崩れしにくい丈夫な帽子ができ上がるのだそう。今回の取材では見ることができませんでしたが、地面を埋め尽くすほどの麦わら帽子が並んでいる姿は想像するだけで圧巻です(画像提供:田中帽子店)
3、帽子に命を吹き込む「型入れ」
寒干しした帽子はプレス機にかけ、「形」の最終仕上げを施します。帽子の形をした金型を取り付け、帽子をセットして挟みこみ、蒸気によって最終的な形に整えます。この作業によって、折れや浮きのない、誇らしげな麦わら帽子が完成します
帽子の金型(写真左)とプレス機(写真右)
つばの部分が通常よりも変形しているものは、型にはめるだけでは完成しません。帽子の形によっては、写真のようにプレス機を使わずに直接アイロンがけをしていくものも
4、被り心地をよくする「内縫い」
形が完成すると、今度は実用面で大切な作業。内側の汗止めやサイズ調整のテープなどをミシンで取り付けていきます。直接肌に触れる部分なので、細心の注意をはらって作業を進めていきます
5、最後のおめかし「飾り縫い」
最後に、リボンなどの飾り付けをして完成。この工程もひとつひとつ手作業で行われています。工程自体はシンプルですが、こうしたひとつひとつの丁寧な積み重ねが、被り心地のいい帽子を作っているのです
「この夏のために一年をどう回すか」
そう、冗談交じりに話してくれたのは、5代目代表の田中英雄さん。学生時代はバスケットボール一筋で、スポーツ推薦で名古屋の大学へ入学したほどの実力の持ち主。大学卒業後はいくつかのアパレル会社の内定が決まっていたものの、東京の帽子問屋で修行を積みます。父である4代目・田中行雄さんの背中を見ていたせいでしょうか。気付けば帽子づくりの道を選んでいたといいます。
5代目代表の田中英雄さん。そこにいるだけで工房の空気がからっと明るくなるような、快活なお人柄でした
「今何が充分で、何が足りていないということは入ってから初めて分かりましたね。なので、まず『この夏のために一年をどう回すか』ということを考えました。よく経営者の方が『従業員のために』と言いますが、そんな余裕はなかったですね。まずスタッフにお給料を払って、最後に自分たちの元に残るのはいくらなの? という計算から。作っているのが麦わら帽子なんで、季節労働者じゃないですか。だから、一年間回すっていうのは本当に大変なことだったんです」
全国でも少なくなっている「麦わら帽子産業」
帽体縫い用の小さなミシンは、今ではもう製造されていない貴重なもの。工場では、自分たちでこれを改良しながら大切に使っています
「約30年前、僕が家業を継いだときはまだ全国の帽子組合とか、メーカーさんの集いみたいなのがあって。既にそのときも、全国で跡を継ぐ、っていうのは僕を入れて二人だけでしたね。その集いも今はなくなって、横の繋がりがまったくない状態です。材料屋さんもどんどん減っているしね」
取材中、英雄さんのお母様が昔の資料やアルバムを大事そうに抱えながら見せてくれました。その中で、こんな貴重な写真も。右は、英雄さんのお母様。屋外で幼稚園の帽子を干しているところです
「なぜ帽子の自社ブランドがこんなに少ないかっていうと……。大きな問屋さんと組んで生産量が多くなると、なかなか自分たちのオリジナル製品を作ったり、『その先』ができないんです。細々とやっていくのであればできるんですけど。続けていくためには、続けられる取引先がちゃんとあって、そういうところと取り組まないといけない。一年間会社を回すには作る製品の『量』が必要なわけで、それだけの量を捌いてくれるところと組まないと年間でやっていけないんですよね」
何があっても、工場は無くしてはいけない
需要と供給のバランスが取れない時代の中で、「食べていけない」と廃業するメーカーも多い中、田中帽子店が長年帽子作りを続けている理由を、英雄さんはこう話してくれました。
「なんで続けてこられたかっていうと、やっぱり工場があったからなんですよね。だから、工場は絶対なくしちゃいけない、何があっても。一時期、自分たちのブランドを自立させることより、どうしても売り上げ重視で売れるところに、売れるところに……って思っていたときがあったんです。一度、それがすべてダメになったとき、工場があったから続けられたんですね。取引がなくなっても、自社工場があるからメーカーとして自立することができた。それで我に返って。それから、『工場を守るためにはどうすればいいの? 』ってことは常に考えています。それがイコール、スタッフを守ることにも繋がっていくので」
当時の英雄さんのご両親。そこに写されていたのは、たくさんの麦わら帽子と満開の笑顔でした
「うちの親父は、とにかくすごく怖かったですよ。中学に入ってバスケットを始めるまでは、とにかく僕が悪さばかりしていたので、よく叱られていました(笑)。でも同じ仕事をするようになってから、『ダメ』も『待て』も言われたことはないですね。すべて『GO』でした」
「息子が継ぐのかわからなかったけど、何の取り得もなかったから、とりあえず(笑)」
そういいつつ、英雄さんの顔は照れながらもうれしそう。
「まだ先はわからないですけど。ただまあ、とりあえず次の世代に繋ぐことができるのかなって」
工場は職人やメーカーにとって、「家」のようなものです。雨や風、強い日差しから身を守り、日々の暮らしを作っていく場所。その家の文化を作り、子ども、子孫に繋げていく。そうして、大切に繋げてきた暮らしが、今の田中帽子店を支えています。
ミニサイズの帽子や、麦わらで作った小物入れ。工場のあちらこちらに、職人さんの遊び心と、この仕事に対する愛を感じられました
誰かが「被っている光景」を思い浮かべながら
工場で働くスタッフの皆さんと
すこしの間を空けて、「でも」と、英雄さんは続けます。
「でも、誰かが被っている光景を、被ってもらえることを思い出しながら、もちろん作っています。『なぜ続けたのか? 』って改めて聞かれると答えに困るんですけど。なんていうのかな、それが使命のような」
英雄さんの顔が、初めてほころびます。
光に揺れる家族の笑顔。虫取り網、どこまでも続くあぜ道、抜けるような青空……夏の景色を思い出すと、大人になった今でも心がはずみます。そして麦わら帽子は、そんなやさしくあざやかな光景といつも共にありました。田中帽子店では、130年続く昔ながらの技術で、毎年誰かの「新しい景色」を作り続けています。
過ぎ去った季節を振り払うように、底抜けに明るい空と麦わら帽子が笑います。
今年も、「この夏」がやってきました。
(取材・文/長谷川詩織)
(画像提供:田中帽子店)