東京メトロ・副都心線でつながる隣の駅には池袋が。百貨店や衣食住のショップが軒を連ねる、いわずと知れた大都会をあとにして、雑司が谷にはわざわざ行きたいお店があります。
雑司が谷の駅から歩くこと3分ほど。明治通りに面したビルの細い階段を上がった2階にあるのが、パンとコーヒー、雑貨を扱うお店「うぐいすと穀雨」です。
お店の扉を開けて行き着いたのは、笑顔とともにこんな会話が行き交う空間。本を片手に一人でカウンター席に座る若い女性、迷うことを楽しむかのようにテーブル席でメニューを選ぶ夫婦。一緒に食べる人の好みを思い浮かべながらパン選びに夢中になる地元の主婦。
ずっと前からここにあるかのような深みのあるときの流れ。一人ひとりの気持ちに寄り添ってくれるようなやわらかな空気。そこに吹く風に身を任せるように、思い思いのときを過ごす人たちの姿が印象的です。
「こんにちは」――まるでわが家のように笑顔で訪れる人を迎えるのは、「うぐいすと穀雨」の店主・鈴木菜々さんです。この地にお店をオープンしてもうすぐ3年。地元の人たちはもちろん、遠方から足を運ぶ人もいるほどの人気店です。
並ぶのは、訪れる人を思って考え抜いたベストメンバー
キッシュの赤、シナモンロールの白、アンパンの黒。鈴木さんが、お店に並んだときの彩りにまで気を配ったラインアップ。「目で見て楽しんでほしい」という思いもあり、パンを自分の作品のつもりでつくっているといいます
今では手伝ってくれるスタッフが増えましたが、ほとんどのパンづくりを1人で行う鈴木さん。夜通し発酵できるもの、逆にあまり寝かすことができないもの、冷凍ができるもの。味や食感など、パンの種類がいろいろあるように、そのつくり方もいろいろ。限りある時間の中で、丁寧に向き合ってつくれるパンを選び抜いているのです。
「女の子が好きそうなパンを選ぶこともできたんですけど、小さいお子さん連れの方も来るし、おじいちゃん、おばあちゃんも来るので、味や食感のバランスが取れることも考えています。しょっぱいものや甘いもの。顔となるようなパンがあったり、引き立てるようなパンがあったり、並べたときにパンのバランスがよくなることを一番に考えています」
朝食に食べたいパン、仕事の合間に食べたいパン。赤ちゃんが美味しいと思うパン、ご年配の方が美味しいと思うパン。
味だけでは美味しさは決まらない――鈴木さんは、パンの先に広がる人々の暮らしにまで思いを馳せながらつくっているのです。
美味しさはつくるのではなく、じっくりと引き出す
「生地の発酵時間を短縮して、すぐこねて、すぐ焼けば生産性がいいし、待ち時間がない分、効率はいいんです。でも、そうすると味に深みが出ないんです。同じ配分でつくっても、時間をかけるものとかけないもので全然味が違うんですよ」
糖分、塩分を極力控えて、じっくりと美味しさを生み出す手法は、時間と手間がかかります。それを貫けるのは、「自分が本当に美味しいと思えるパンを提供したい」という強い思いです。
思わずさわりたくなるきれいな色とつやのある生地。ひとつ分の大きさにリズムよく切り分けていきます
丁寧に一つひとつ丸めて形をつくったら、その日のベストな時間を見定め、じっくりと発酵させます
発酵から焼き上がりまで最低でも7時間かかります。そうしてでき上がるのが看板商品「まいにち」。その名の通り、毎日食べてもらいたいという思いが込められています
いつの間にか慌しく過ぎる毎日。当たり前にしていたことができなくなったとき、人はハッと気づくのです。その当たり前がいかに素晴らしいのかを。
そんな大切だけど忘れがちなことを思い出させてくれる、鈴木さんがつくるパン。その中にぎゅっと詰まっているのは、どうやら食材だけではなさそうです――
"やりたいことをやる"という真っ直ぐな素顔
そう質問すると、ついこの間のことのように話してくれたのは、鈴木さんの人柄を語るうえで外せない幼稚園のお遊戯会のときのエピソード。
「紙芝居や劇、フォークダンスなど4種類の中から好きな遊戯を園児が選ぶことができたんです。最初は紙芝居が10人くらいいたんですね。でも、メンバーが友達に誘われてダンスや劇にうつってしまって、私1人になってしまったんです。それでも、私はどうしても紙芝居がやりたかったので、1人で全部絵を書いて、文章も考えて……。大人の前で1人で発表したんですよ」
鈴木さんのやわらかくてやさしい雰囲気からは意外ともいえる、魅力的なエネルギッシュな素顔。お店を続けるパワーはどこからくるのだろう……取材前から抱いていた疑問の答えが顔を出しました。
大学在学中には、仕事として結婚式や保育園などのイベント写真を撮っていたという鈴木さん。大学生がカメラマンとして働くことは趣味の域ではできないこと。まさかとは思いながら「独学ですか?」と尋ねると、「きれいに写真が撮れる構図はある程度決まっているんです」とさらり。その表情には、好きなことに真っすぐに取り組む幼稚園のときから変わらない顔が垣間見えました。
当たり前じゃない。食べることの幸せを感じた療養生活
子どもたちと心を通わせながら、日常風景を撮影するカメラマンの仕事にやりがいを感じる一方で、変わらずに好きだったお菓子づくり。そこから派生して、大学時代はいろいろな飲食店でのアルバイトも続けていました。
鈴木さんにとってどちらも大好きなことでしたが、飲食の仕事で生きていくと決意するきっかけになったのが、大学を卒業してからの1年間の療養生活でした。鈴木さんは、物心ついたときから血液内科の持病と向き合ってきたのです。
将来パティシエになりたいという夢がありながら、一般の大学に進学したのも体調を労わったうえでの決断。ご両親や学校の先生は、鈴木さんの夢を理解しながらも、パティシエというハードな仕事をこなすことは難しいと考えたのです。
「特別な日に、特別なことをするのも魅力的なんですけど、日々続けている何気ないことも、よくよく考えると、毎日を暮らせているという価値があると思うんです」
上品な装いでお行儀よく並ぶビスコッティ。思わず贈りたい相手の顔が浮かびます
治療中に飲食がまったくできない期間があった鈴木さん。心の底から感じたのは、”食べられるっていいな”ということ。美味しいものを食べたときに湧き上がる、言葉では表現しきれない幸福感。飲食の道に進む決意は、そんな思いに導かれたのかもしれません。
場を和ませるための冗談……?一瞬そう思って鈴木さんを見ると、眼差しは真剣です。
「アンパンマンがパンをあげると、百発百中で元気になるじゃないですか。食べるというのは、命や力という源につながっていると思うんです。元気がない理由は人それぞれでも、美味しいものならすぐに人を元気にできるぞと思って。美味しいってそのときに得られるパワーみたいなのがあって、それが一番いい状態で提供できる場所がつくりたいと思ったんです」
感覚的に掴めたパンづくり
食パン「まいにち」が主役のトーストのセット。一口かじるとサクサクっといい音とともに小麦の香りが広がります。手づくりの質感に温かみを感じるマグカップは、雑司が谷の「鬼子母神」と「大鳥神社」で開催される手創り市で一目惚れした「SŌK」のもの。作り手の鈴木絵里加さんとは"えりかちゃん"と呼ぶほどの仲良し
「前世はパン屋だったのかもしれません」そういって冗談交じりに笑う鈴木さん。しかし、お話を聞くほど冗談とはいい切れないかもしれない……そんな感覚に包まれました。
それまでも鈴木さんは、自分に合うことを探求して好きなことに挑戦する刺激的な毎日を送ってきました。大学在学中には、さまざまな飲食店でアルバイトを経験したほか、マッサージの仕事をしたり、バンドを組んでボーカルをしたり。どれも本気で取り組んだからこそ生まれたのが、もっと上手になりたい、認めてもらいたいという気持ち。周りの人と比較して、より上にいくことを目指して試行錯誤する日々は、焦りと隣り合わせ。
しかし、パンづくりに関しては、不思議とその感情が生まれなかったんだそう。
鈴木さんがパンづくりに見出したのは、自分らしさ。自分は自分のパンをつくればいい。自然とそう思える自信は、言葉では表現できないフィット感と、美味しいパンを追求し続ける日々の努力。この相反するような2つが合わさり、人を虜にする世界にひとつだけのパンが生み出されているのです。
元気になれる場所をつくりたい
カウンターで作業をするスタッフの池田さん。お客さんに丁寧にパンの説明をする姿が印象的でした
店内は古道具で統一。人がずっと使っていたものを継ぐことに魅力を感じるという鈴木さん。それぞれの持つストーリーが折り重なるように心地い空間が生まれています。内装プロデュースを手がけるのは「はいいろオオカミ+花屋 西別府商店」の佐藤克耶さん
意外ともいえる言葉の奥には、「元気になれる場所をつくりたい」という揺るがない思いがあります。
「目に見えて人が元気になるところが見たかったから、カフェという場所をつくりました。販売だけだと、買っていく人の顔は見られるけど食べているときの顔が見えないんです。ここで時間を過ごしてもらうことの付加価値をつけたかったから、パン屋だけじゃなくてカフェもやりたかった。食べる時間というのも含めて、栄養にしてほしかったんです」
「うぐいすと穀雨」の閉店は18時。夜遅くまでやっているお店ではないから、訪れる人の多くには次の目的地があります。
「一時的に疲れてしまってここに来たんだけど、食べたら元気になって次のところに行ける。そういうのがいいなって思います」
パンを選び、ゆっくりと味わう。じんわりと心はほどけ、席を立つときには何だか来たときより元気が出ている。一人ひとりの心の中に、鈴木さんが見たい風景があるのです。
カウンターの横では、季節のジャムとクッキーも販売。どれもこだわりの食材でつくられています
「こんにちはとか、今日暑いですねとか、お休みの日に出かけた話とか……話題は何でもいいんですけど、短い会話でもいいからコミュニケーションがとれたらいいなぁって思うんです」
話しかけたときの声の感じでどんな調子なのかわかるという鈴木さんは、ご自分も意識しないくらい、一人ひとりの笑顔を自然と望んでいるのでしょう。
運命のように出会った言葉
店名の「うぐいす」は、春がくることを表す七十二候の「うぐいす鳴く」という言葉に由来します。二十四節気の「穀雨」は、夏に穀物が育つために必要な春の終わりに降る雨という意。この2つを合わせた店名には、季節が移り変わっていくようなときの流れを感じてもらえたら……という思いが込められています。
お店を持つと決めてから、自分の思いと重なる言葉を何年も探し続けていた鈴木さん。とくに「穀雨」という言葉を見たとき、直感的に「これだ!」と思ったのだそう。"恵みの雨"ともいえる言葉は、鈴木さんが目指すお店そのものを表してくれていました。
そして、言葉の響きには理解しきれない奥深さを感じます。実は、その"掴みどころのなさ"も選んだ理由だと鈴木さんはいいます。
「穀雨」の意味を知り、雨はめんどうなものという位置づけから、必要なものへと認識が変わる。そこから、自然に思いを寄せる人もいれば、人生になぞらえる人がいるかもしれない。鈴木さんは、お店という場所が持つ可能性をどこまでも広げていく力があるようです。
大切にしているのは「自分のペースを守る」こと
やわらかな物腰の鈴木さんと話していると、やりがいや楽しさばかりに目を向けがちですが、パンをつくること、カフェを運営することは、体力も時間も相当必要です。実は、当初は仕込みの3日間のうち1日は休むことを予定していましたが、仕込みやお店の準備でなかなか休みがとれないのが現状だといいます。
最近、パンの仕込みを手伝ってくれることになった東條さん。真剣に鈴木さんの動きを見つめます
キッシュの生地を丁寧にかたどっていきます。左下にあるのは、カヌレの型。今後お店で提供するために研究中
自分のペースを守りたいのは、心からゆっくりとできる空間にしたいから。この秋にキッチンを拡張工事したのは、きちんとお休みをとれる体制を整えるためでもあります。2人でパンづくりができるようになったキッチンでは、スタッフさんが仕込みの真っ最中でした。ゆくゆくはパンの種類を増やすことも目指して、ほかのスタッフにパンづくりを伝え始めています。
これからも続く、好きなものへ真っ直ぐに進む道
カウンターの横では「SŌK」のアクセサリーや「fog linen work」のクロスなどを販売。ギャラリーが完成した際には、ラインナップをさらに充実させる予定
「私がお客さんとしてここに来たときにあったらいいなと思うのが、雑貨屋さんとかギャラリーなんです。目で見てかわいい雑貨って、ここが好きな人はすごく好きだと思うんですよね」と、うれしそうに話してくれた鈴木さん。すでに頭の中には、訪れる人を虜にする素敵な空間ができあがっているようです。
そんな心地良さは、鈴木さんの好きなこと、大切にしていることがそのままのかたちでぎゅっと詰まっているから。自分の気持ちを込めたことは、人の心に届く。鈴木さんが体言しているのは、そんなシンプルなことなのかもしれません。
ギィと音をたてて開く扉から、さまざまなストーリーをのせた方がやってきます。
「こんにちは」
1人ひとりの人生に気持ちをのせるように、今日も鈴木さんはやわらかな笑顔で迎えます。
(取材・文/井口惠美子)
左に見える階段を上ると「うぐいすと穀雨」があります。隠れ家にやってきたようなわくわく感が、1段1段足を進めるたびに膨らみます