新撰組ファンの方へ。東京近郊で新撰組ゆかりの地を訪れてみませんか?

新撰組ファンの方へ。東京近郊で新撰組ゆかりの地を訪れてみませんか?

新撰組と聞くと京都を思い描く人が多いのではないでしょうか。新撰組が多大な功績を残した京都には、新撰組ゆかりの地が数多くあります。しかし、新撰組局長の近藤勇、副長の土方歳三を含め、新撰組幹部のほとんどは関東出身で、東京近郊にも新撰組ゆかりの地がたくさんあります。また、戊辰戦争が勃発した後、新撰組は京都から江戸へ移り、関東でも幕府軍として出陣しています。新撰組ファンなら、訪れてみたい東京近郊の新撰組ゆかりの地をご紹介します。2016年09月17日作成

カテゴリ:
旅行・お出かけ
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首都圏東京都都内観光スポット歴史
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近藤勇生家跡

新撰組の局長を務めた近藤勇は、多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)で、農民・宮川久次郎の三男として1834年に誕生しました。かつて宮川家があった場所には、宮川勝五郎(後の近藤勇)の生誕の地として、石碑が建てられています。
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新撰組の局長を務めた近藤勇は、多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)で、農民・宮川久次郎の三男として1834年に誕生しました。かつて宮川家があった場所には、宮川勝五郎(後の近藤勇)の生誕の地として、石碑が建てられています。

近藤神社

近藤勇の生家跡すぐ近くには、近藤勇を祀る近藤神社があります。
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近藤勇の生家跡すぐ近くには、近藤勇を祀る近藤神社があります。

撥雲館

近藤勇の生家の向かいに佇む古い道場、撥雲館は、近藤勇の養子、近藤勇五郎が1876年に創設した剣術道場です。多くの門人がいた撥雲館では、1970年頃まで剣術の稽古が行われていました。
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近藤勇の生家の向かいに佇む古い道場、撥雲館は、近藤勇の養子、近藤勇五郎が1876年に創設した剣術道場です。多くの門人がいた撥雲館では、1970年頃まで剣術の稽古が行われていました。

土方歳三資料館(土方歳三生家跡)

「鬼の副長」という異名を持ち、常に厳しい態度で隊務に臨んだ土方歳三は、1835年に多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)で豪農・土方隼人の四男として誕生しました。
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「鬼の副長」という異名を持ち、常に厳しい態度で隊務に臨んだ土方歳三は、1835年に多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)で豪農・土方隼人の四男として誕生しました。

天然理心流試衛館跡

天然理心流の道場、試衛館に入門した宮川勝五郎(後の近藤勇)は、農民の出身でありながらも天才的な剣術を高く評価され、道場主の近藤周斎と養子縁組をします。試衛館には、新撰組一番隊組長の沖田総司、新撰組六番隊組長の井上源三郎、新撰組総長の山南敬助らが門弟として入門しており、後の新撰組幹部となるメンバーが集まっていました。
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天然理心流の道場、試衛館に入門した宮川勝五郎(後の近藤勇)は、農民の出身でありながらも天才的な剣術を高く評価され、道場主の近藤周斎と養子縁組をします。試衛館には、新撰組一番隊組長の沖田総司、新撰組六番隊組長の井上源三郎、新撰組総長の山南敬助らが門弟として入門しており、後の新撰組幹部となるメンバーが集まっていました。

浪士組結成の処静院(しょじょういん)跡

近藤周斎と養子縁組をした宮川勝五郎は近藤勇と名乗るようになります。近藤勇は、1863年に処静院で新撰組の前身となる浪士隊を結成し、京都へ向かいました。
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近藤周斎と養子縁組をした宮川勝五郎は近藤勇と名乗るようになります。近藤勇は、1863年に処静院で新撰組の前身となる浪士隊を結成し、京都へ向かいました。

西光寺の近藤勇像

上洛後、京都で数々の功績を残し、近藤勇は農民出身でありながらも幕臣にまで登りつめ、旗本身分を与えられます。しかし、時代の波は新撰組を過酷な運命へ導いてゆきます。鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍と共に新撰組は江戸へ撤退します。

江戸へ撤退した後、新撰組は1868年3月1日に、甲陽鎮撫隊と名を改めます。甲府城へ出陣する道中、近藤勇は故郷・上石原村の西光寺で休憩をします。甲陽鎮撫隊が休憩を取った西光寺には、甲府へ向かって出陣していった近藤勇の像が残されています。
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上洛後、京都で数々の功績を残し、近藤勇は農民出身でありながらも幕臣にまで登りつめ、旗本身分を与えられます。しかし、時代の波は新撰組を過酷な運命へ導いてゆきます。鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍と共に新撰組は江戸へ撤退します。

江戸へ撤退した後、新撰組は1868年3月1日に、甲陽鎮撫隊と名を改めます。甲府城へ出陣する道中、近藤勇は故郷・上石原村の西光寺で休憩をします。甲陽鎮撫隊が休憩を取った西光寺には、甲府へ向かって出陣していった近藤勇の像が残されています。

近藤勇陣屋跡

甲陽鎮撫隊は甲州勝沼の戦いにも敗れ、下総国流山(現在の千葉県流山市)に新しく陣を置きます。しかし、下総国流山の陣で新政府軍に捕えられた近藤勇は板橋刑場で処刑されてしまいます。近藤勇陣屋と呼ばれる下総国流山の陣は、盟友であった土方歳三と最後の別れの場となりました。
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甲陽鎮撫隊は甲州勝沼の戦いにも敗れ、下総国流山(現在の千葉県流山市)に新しく陣を置きます。しかし、下総国流山の陣で新政府軍に捕えられた近藤勇は板橋刑場で処刑されてしまいます。近藤勇陣屋と呼ばれる下総国流山の陣は、盟友であった土方歳三と最後の別れの場となりました。

龍源寺 近藤勇の墓

1868年4月25日に処刑された近藤勇は享年35歳でこの世を去ります。波乱万丈の人生を歩んだ近藤勇は、龍源寺で静かに眠っています。
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1868年4月25日に処刑された近藤勇は享年35歳でこの世を去ります。波乱万丈の人生を歩んだ近藤勇は、龍源寺で静かに眠っています。

専称寺 沖田総司の墓

近藤勇を実の兄のように慕い、近藤勇と土方歳三の側近として新撰組の功績に多大な影響を与えた天才剣士・沖田総司は肺結核を患い享年25歳で生涯を閉じます。専称寺にある沖田総司の墓は、年に一回行われる総司忌のときにだけ参拝することができます。
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近藤勇を実の兄のように慕い、近藤勇と土方歳三の側近として新撰組の功績に多大な影響を与えた天才剣士・沖田総司は肺結核を患い享年25歳で生涯を閉じます。専称寺にある沖田総司の墓は、年に一回行われる総司忌のときにだけ参拝することができます。

石田寺 土方歳三の墓

近藤勇にとって生涯の盟友であり、右腕として数々の武功を挙げた土方歳三も戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館五稜郭の戦いで35歳という短い生涯に終止符を打ちます。土方歳三は、故郷日野市石田にある石田寺で静かに眠っています。
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近藤勇にとって生涯の盟友であり、右腕として数々の武功を挙げた土方歳三も戊辰戦争の最後の戦いとなった箱館五稜郭の戦いで35歳という短い生涯に終止符を打ちます。土方歳三は、故郷日野市石田にある石田寺で静かに眠っています。

金剛寺(高幡不動尊)

平安時代初期に創建され、江戸時代には多くの学僧を輩出した真言宗智山派の寺院、金剛寺(通称「高幡不動尊」)も新撰組ゆかりの寺院です。金剛寺は、日野市で生を受けた土方歳三の菩提寺でもあります。
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平安時代初期に創建され、江戸時代には多くの学僧を輩出した真言宗智山派の寺院、金剛寺(通称「高幡不動尊」)も新撰組ゆかりの寺院です。金剛寺は、日野市で生を受けた土方歳三の菩提寺でもあります。

金剛寺はアジサイの名所としても有名な寺院です。毎年梅雨の時期になると、境内の山奥には多数のアジサイが競うように咲き誇ります。
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金剛寺はアジサイの名所としても有名な寺院です。毎年梅雨の時期になると、境内の山奥には多数のアジサイが競うように咲き誇ります。

金剛寺には、の土方歳三の銅像があります。彫りの深い端正な顔立ち、すらりとした長身、死を覚悟して隊務に臨む厳しいまなざし……。この土方歳三像を見ていると、死後、約150年の時間を経た今でも、土方歳三が数多くの人に愛され続ける理由がわかるような気がします。
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金剛寺には、の土方歳三の銅像があります。彫りの深い端正な顔立ち、すらりとした長身、死を覚悟して隊務に臨む厳しいまなざし……。この土方歳三像を見ていると、死後、約150年の時間を経た今でも、土方歳三が数多くの人に愛され続ける理由がわかるような気がします。

こちらが、新撰組副長、土方歳三の写真です。金剛寺の銅像と同じく、男前だと思いませんか?
出典:www.flickr.com(@Tatsuo Yamashita)

こちらが、新撰組副長、土方歳三の写真です。金剛寺の銅像と同じく、男前だと思いませんか?

ひの新選組まつり

土方歳三の故郷、日野市では毎年「ひの新撰組まつり」が開催され、多くの新撰組ファンが一同に集まります。
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土方歳三の故郷、日野市では毎年「ひの新撰組まつり」が開催され、多くの新撰組ファンが一同に集まります。

東京近郊には、紹介したスポット以外にも、数々の新撰組ゆかりの地があります。京都以外での新撰組の足跡をたどりたい方は、ぜひ、東京近郊の新撰組ゆかりの地にも足を延ばしてみてください。

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