大人も魅了する絵本作家・きくちちきとは?
いちばん めをひくのは くろねこね」
これは、絵本作家・きくちちきさんのデビュー作『しろねこくろねこ』の一節。仲良しのしろねことくろねこは、いつも一緒に様々な場所へ出かけます。行く先々で美しい景色に染まるしろねこは周囲に褒められ、くろねこはだんだんと自分の姿に自信をなくしてしまい、知らない道を走り続けます。その先に見つけたものは……。自己と他者の間で生まれる劣等感や孤独、そして成長。誰もが一度はぶつかる普遍的なテーマをのびのびとしたタッチで描いた絵本です。そのままの自分が一番魅力的であることを教えてくれるこの作品は、子供だけでなく、大人からもたくさんの共感を集めました。
『しろねこ くろねこ』 学研プラス 2012年
*2 準グランプリにあたる賞。5名の作家が選出される
建築からグラフィックデザイナーの世界へ
ダイナミックな絵柄とは反対に、穏やかな声でお話を聞かせてくれたきくちさん。近隣の緑ゆたかな景色もあいまって、周囲にはゆったりとした空気が流れていました。北海道出身のきくちさんにとって、自然や動物は今も身近な存在です。「わりと普通の子だった」という小学生時代は、スポーツ少年でありながら絵を描くことも大好き。友達と一緒に当時流行っていた少年漫画の絵を描いていたのだそう。しかし、周囲に隠していたすこし変わった一面も。
大きな窓があるきくちさんのアトリエ。この日はあいにくの雨だったが、晴れた日には近隣の山々を一望できる
大学では建築を勉強していたきくちさん。建築の道を志したのは、「図面を描くのが楽しそうだし、家を建ててみたかった」から。けれども、大学3年生になるころにはこの世界に限界を感じていました。勉強は楽しかったものの、それを仕事にすることは考えられなかったのです。
デビュー前も今も、私家版の絵本を制作し、精力的に個展を開いているきくちさん。デビューのきっかけになった自作の本は、絵の勢いやストーリーもさることながら、装丁の美しさでも注目を集めました。綴じ方や印刷にもこだわるようになったのも、会社員時代の経験が大きいといいます。
『とらこのおくりもの』 えほんやるすばんばんするかいしゃ 2018年
根強い人気がある少部数の手作り絵本。表紙は活版印刷、全編黄色のインクで印刷された、飾っておきたくなる一冊
「以前から友人と『いつかデザイン事務所を作りたいね』という話をしていて、そのタイミングが思ったよりも早く来たんです。最初に就職した会社は、2年で辞める気はまったくなくて、まだまだ学びたいことがあって迷ったのですが、退職を選びました。でも、僕はその事務所でも続かず、ケンカ別れのように結局1年ちょっとで辞めました。一番仲の良かった友人はすごく仕事ができる人で、僕は要領のいい人間ではないので、かなり甘えていた部分があったと思うんです。友人は友人で僕にすごく期待していたみたいで、お互いにその気持ちが辛くなってしまった。仲がいいゆえに、仲間と仕事をするってすごく難しいんだなって、そのとき初めて感じましたね」
人生を変えた絵本との出合い
「布装で、箔押しがしてあって、中身も作りもトータルで素晴らしかったので本当に衝撃的で。印刷会社にいたこともあり、そのころには印刷が好きになっていたので『これはすごいな……』って」
画材は店頭で実物を見て買うことが多い。和紙は大量に使用するため、工場に発注して直送してもらっているそう
「たぶん、ずっと掃除ばかりしてモヤモヤしていたんでしょうね。掃除は掃除で楽しくて、まったく苦ではなかったです。けっこう上手だったので、そのまま行ったら清掃関係の仕事に就いていたんじゃないかな(笑)。でも、モンヴェルの絵本を見てから一気に目の前が明るくなって、すぐに描きたくなりました。なにかこう、『やらなきゃ!』っていう気持ちがぶわっと溢れてきたんです」
絵は立って描くのがきくちさんのスタイル。背が高いこともあり、このほうが大きい原画の全体を俯瞰で見ることができるのだそう。「ただ、すごく首がこるんですよね(笑)」
筆を寝かせず、立てて描くのもきくちさんの特徴。奔放で、良い線が描けるのだとか
「好き勝手できるのが、本当に楽しかったですね。紙とかも自分で一枚一枚選んで、家のプリンターで簡単に印刷して、千枚通しで穴を開けて綴じたり、糸で縫ったり。やっと自分が熱中できるものを見つけた感じがしました」
「初の出版で不安のほうが大きく、常に「これでいいのかな?」って気持ちで。〆切がなかったらたぶんずっと描いていたと思います。一通りぐちゃぐちゃになったころに、もとのストーリーに戻そうってことになったんですけど、すごくアッサリいうんだなって(笑)。でもなるほどな、これだけやって上手くいかないってことは、やっぱり最初のでよかったんだって、自分でも明確になったのでいい経験でしたね。今でも絵本を作るときは、とにかく迷いしかないです。迷って迷って、ひたすら迷いながら手を動かしています」
装丁を手掛けたのはデザイナー菊地敦己氏。編集者の熱意から、新人作家のデビュー作としては異例の価格帯で出版された。カバーや紙もこだわり抜き、いつまでも大切に持っていたくなる一冊に仕上がった
『しろねこくろねこ』は近所にいた美しい野良猫から着想を得た。あるモチーフからアイデアが膨らむこともあれば、急にストーリーを思い浮かぶこともある
心を砕いた『しろねこくろねこ』が世界の絵本原画コンクールで認められたのは、出版からわずか一年後のこと。そして授賞式の日は、偶然にも息子さんの出産日でもありました。
「確信しました。これは完全に、息子が持ってきてくれた賞だって」
素晴らしい友達のような絵本を作り続けたい
息子さんがまだ小さいころ、きくちさんが作ったバスのおもちゃを身体に登らせる遊びをしていたそう。「パパ」シリーズはそんな実体験をもとに生まれた絵本。大きなくまさんパパが、きくちさんにそっくり
『パパのぼり』、『パパおふろ』 ともに文溪堂 2017年
「それがいいんですよね、やっぱり。息子の友達は僕の絵本をすごく気に入ってくれているんだけど、息子は『なんでこんなに違うんだろう』ってくらいリアクションが違う(笑)。そういうのも含めて、絵本は面白いですよね」
一番身近な読者である子供の存在は、きくちさんの創作にも大きな影響を与えました。
『パパのぼり』にも登場する、とても贅沢な手作りおもちゃ
誰しも子供のころ、必ず一冊は大好きな絵本があったはず。特定のページを何度も繰り返し読む子、絵をやさしく撫でる子、はたまた絵本をもとに、オリジナルのストーリーを生み出す子まで……。大人が見ていて不思議に思う行動でも、子供は五感をいっぱいに使って絵本の世界を読んでいるのです。絵、ことば、紙の質感――こんなにも多様な読み方ができる媒体は、絵本だけかもしれません。きくちさんは、そんな絵本の醍醐味を実感したエピソードも教えてくれました。
息子さんのお気に入り絵本
(左)『でんしゃくるかな?』(こどものとも0.1.2.) 福音館書店 2018年
(右)『ちきばんにゃー』 学研プラス 2014年
「泣きながら『すごく素敵なお話ですね』って。僕も抑揚をつけて丁寧に読んでいたわけではなく、わりと淡々と説明していただけだったので、衝撃的でした。ちょっと話しただけでそんなに物語の世界にのめり込んで、感動してくれるんだって。そのときは本当に絵本の面白さを目の当たりにしました。展示のときにお客さんと話すくらいで、ふだんは読者の声ってほとんど聞けないので、本当にいい経験をさせてもらいましたね」
今年の9月に発売予定のきくちちきさんの2冊の新刊『しろとくろ』(講談社)と『くろ』(武蔵野市立吉祥寺美術館)。美術館からの提案で、2つの世界がリンクする絵本を作成することになった。主人公は、犬のくろと猫のしろ。ともだちができた喜びなど、息子さんがふだんから喜んでいることを、そのままの目線で描いている
読者の数だけ、語り手の数だけ、無限に広がりをみせる絵本。だからこそ、きくちさんは「ルールをもたないこと」を大切にしています。
「こういう描き方をしたい、こんなメッセージを載せたいというのはないですね。そういうものに縛られてしまうと、絵本の世界が狭まってしまう気がするので。そのときに興味があったものや、小さいできごとからお話が描けたらいいな、と思っています」
彼の絵本が、子供だけではなく、大人をも感動させるゆえんは、そんな真っすぐな心が伝わるからなのでしょう。作品に描かれているのびやかな動物や自然に触れるうち、気のおけない仲間と話しているときのような、解放された気持ちになるのです。
ふと疲れたときには、きくちさんの絵本をめくってみてください。きっと、あなたの素晴らしい友達がみつかるはずです。
(取材・文=長谷川詩織)
【Information】東京・吉祥寺で「きくちちき絵本展 しろとくろ」が開催!
今年9月、東京・吉祥寺の武蔵野市立吉祥寺美術館できくちさんの展示が開催されます。今回のインタビューでも登場した原画を見るチャンス!代表的な絵本原画や、デビュー前に自費出版していた手製本原画、今回のために制作された大型のバナー作品や立体作品を含め、約200点が展示されます。
自然の音や、動物たちの息遣いが感じられる力強く美しい原画をぜひ間近でご覧ください。
■開催期間:2019年9月21日(土)~11月10日(日)
■時間:10:00~19:30
■会場:武蔵野市立吉祥寺美術館
※イベント詳細は記事末のリンクよりご確認ください
『しろねこ くろねこ』 学研プラス 2012年