インタビュー
vol.96 neulo・熊谷美沙子さん -逆境をチャンスに変えて。
強くやさしいタペストリーを編む人
写真:川原崎宣喜
「neulo(ネウロ)」は、デザイナーの熊谷美沙子さんが2014年にスタートした、ウォールハンギングのブランドです。展開しているのは世界中から集めた羊毛や、ヴィンテージの毛糸を使ったハンドメイドのタペストリー。「見ていると癒される」と評判が広まり、たくさんの人が購入を心待ちにしています。思わず撫でたくなるやさしい表情の作品たち。しかし、ブランド設立のきっかけとなったのは、熊谷さんの身に起こった苦難でした。その場の空気を穏やかに塗り替える「neulo」の手仕事の魅力を紐解きます。
暖色や柔らかな素材のファブリック。お気に入りのコーヒーを淹れたら、厚手のブランケットにぐるりと包まる。遠くで鍋が煮える音を聞く。外の空気が張り詰めるほどに、ぬくもりを五感で感じる時間が楽しみになるものです。肌に触れるものだけでなく、目にうつるものもやさしく暖かい。そんな空間なら、寒い冬もきっと好きになれるはず。
「neulo(ネウロ)」は2014年に設立されたウォールハンギングのブランド。柔らかな色あいのたっぷりとしたタペストリーは、デザイナーである熊谷美沙子さんの手でひとつひとつ丁寧に編まれています。世界中から集めたという毛糸の豊かな表情が、その場の空気を暖かく塗り替えてくれるよう。
ブランドの誕生から4年が経ち、口コミで少しずつ評判が広がっていったneuloのタペストリー。現在は不定期でオーダーを受けながら、ポップアップショップや展示などで作品を販売しています。ひとつひとつ手作業でつくられる一点物。大量生産はできませんが、そのぶん、多くの人が、自分の家にタペストリーを迎える日を心待ちにしています。
デザイナーの熊谷さんが暮らすのは、神奈川は葉山町の高台。人々が行きかう逗子駅から車で20分ほど走ると景色は一変。木々が色づく山に降り立つと、眼下に葉山の町並みが広がります。ご自宅を訪ねると、2匹の愛犬とともに笑顔で迎えてくれました。
和裁を習っていたお母さまの影響で、編み物と刺繍が趣味だったという熊谷さん。インドア派かと思いきや、4歳から始めたクラシックバレエではプロを目指していたという情熱的な一面も。しかし、もともと、文化が根付いていない日本ではバレエを「職業」にするのはとても難しいこともあり、17歳のときにプロへの道は絶たれてしまいます。高校卒業後も当然のようにバレエを続けると思っていた熊谷さんの目の前に、突然現れた分かれ道。意外にも「スパッと諦めがついた」と熊谷さんは話します。昔から洋服が好きだったこともあり、卒業後はアパレルの販売員として新たな道を歩きはじめました。
幼いころから、好きだったのは茶や黒などシンプルな色。女の子らしいピンクの服を着せられると泣き出してしまうほど、自分のファッションにこだわりを持っていた熊谷さん。しかし、服を「売る」販売員としての仕事は思うようにはいきませんでした。
「私は接客が苦手で、売り上げが全然取れなくていつも怒られていました。販売が得意な人は、『似合うと思わせる力』を持っていて。私は『気に入らなければ無理に買わなくても……』と思ってしまうほうなので(笑)、販売員には向いていなかったですね」
華やかな色は敬遠していたものの、旦那様の影響で最近は「素敵だなと思うようになった」と熊谷さん。ヴィヴィッドカラーを作品に取り入れることも考えているそう。写真右はもう一匹の愛犬・エルモくん
当初は、洋服が好きで飛び込んだアパレル業界。しかし、働くうちに店内のデザインやインテリアに興味を持ち、いつしか販売員からVMD*を志すようになります。
「人って、曜日や天候によって買うものが違うんですよ。それを意識しながらお店の内装を変えると、売り上げが伸びるっていうのが楽しくて。もともと子供のころから、間取りを見て何を配置するか想像するのが好きだったんです。新聞に入っている建築の広告を集めたり、実家が新築を建てるときには、両親と一緒に不動産屋に行って、自分の部屋の色を意見していましたね(笑)」
*「ヴィジュアルマーチャンダイザー」の略称。売り場や店舗全体のレイアウトなど、ブランドや企業の世界観やショップのイメージを表現する仕事
「月イチで部屋の模様替えをして、親に不思議に思われていた」と笑う熊谷さん。ファッションと同じくらい、インテリアへのこだわりは大人顔負け。VMDという仕事に興味を抱くのは、ごく自然なことだったのかもしれません。その後、4社のアパレル会社で勤務し、それぞれのブランドで順調に経験を積んでいたある日のこと。一販売員からスタートした熊谷さんの夢は、突然終わりを迎えることになります。
糸を紡ぐ熊谷さんの右手には、痛々しい手術痕が残っています。5年前、転倒したはずみで親指を骨折したときの傷です。全身麻酔の大手術を終えたものの、医師からは、「完治は難しい。覚悟してください」と告げられました。華奢でしなやかなその指は、今も思うように曲げることができません。VMDのサポートなどで店舗の内装にかかわるようになり、仕事もこれからという28歳のときのことでした。
「始めの2年はずっと痛みがありましたし、今も痺れている感じなんですよ」
当時のことを穏やかなトーンで振り返る熊谷さん。決して辛さを口にすることはありませんでしたが、胸が潰れそうな思いであったことは明らかです。勤めていた会社は休職する予定でしたが、リハビリに半年以上かかるということもあり退職。当時お付き合いしていた旦那様との結婚を期に、葉山へ移住することとなりました。知人もおらず、慣れない土地での新生活。突然、暗闇に放り出されたような日々を送るなか、熊谷さんを導いてくれたのは「変わらない自分」で在ることでした。
「リハビリで指を動かした方がいいということで、ずっと編み物をしていました。怪我をする前から、編み物は大人になってもずっと続けていて。アパレル時代にも、布を割いてつくったアクセサリーをお客さんにプレゼントしていたんです」
幼いころから生活の一部になっていた編み物。無心になれるそのひとときは、手だけでなく心のリハビリにもなっていたのでしょうか。ある日、旦那様が家に飾っていたヴィンテージの大きなタペストリーが目に留まります。「これは編み物でもないし、どうやって作っているんだろう?」。インターネットで作り方などを検索するうちに、熊谷さんの胸に芽生えた好奇心は、みるみる大きくなっていきました。
「neulo」を始めるきっかけとなったヴィンテージタペストリーからインスピレーションを受け、熊谷さんが編んだ作品。色や材料を変えて独自の雰囲気に仕立てあげています(写真提供:neulo)
羊毛や布を使って編まれたウォールハンギングは、古くから世界各地にあるものの、その起源は曖昧です。どこか遠い国の暮らしの中で慈しまれてきた、名もなき人の手仕事。そこに流れる悠然とした時間が、熊谷さんの心をやさしくほぐしてくれたのかもしれません。好奇心はいつしか「作ってみたい」という衝動に変わっていました。ネットの情報をもとに海外から織り機を取り寄せ、独学でのタペストリー制作がスタートしました。
「最初は何もわからなかったですね。織り機の説明書も英語で読めないので見様見真似で。何がスタンダードっていうのもないから、自分のやり方が正解なのかもわからないし。始めて4年が経っても、いまだに『あっ、そうか』っていう発見があります(笑)」
編んではほどいての試行錯誤を繰り返しながらも、いつしか夢中になっていた熊谷さん。慣れ親しんだ編み物でなく、まだ自分が知らない世界と向き合いながら手を動かすこと。それは、途方もないように思えた日々に見えた一筋の光でした。
自宅の敷地内にある熊谷さんのアトリエ。窓いっぱいに柔らかな光が差し込みます
織り機を購入してからは、コースターやチェアマット、小さなタペストリーをつくってはご近所さんや友人にプレゼントしていた熊谷さん。あるとき、知人から「これ、売れるんじゃない?」と提案を受け、試験的にタペストリーを何点か販売することに。まだ無名のブランドだったにもかかわらず、店頭に置いて間もなく完売。いわく、「材料も今より少なくお値段も半分以下だったから」と笑いますが、その後もSNSに作品を公開すると、続々とオーダーの問い合わせが入ります。セレクトショップ「BIOTOP」での展示販売を皮切りに、様々なショップや、ディスプレイ用作品の依頼がくるまでのブランドへと成長しました。
縦糸と横糸を織ってつくられるタペストリー。耐久性を出すため、ひとつひとつ糸を結んでいきます
時には100本以上の糸を結ぶことも。長時間にわたり糸を触っていると、乾燥して手が荒れてしまうためハンドクリームが欠かせません。タペストリーの要となる流木は、四国に住む旦那様のサーフィンの師匠が、定期的に送ってくれるもの。葉山の海に流れ着く流木は黒く、四国のものは白い木が多いのだとか。作品の雰囲気に合わせて使い分けています
ブランド名である「neulo」は、フィンランド語で「ニット」や「編む」を意味します。以前から北欧のインテリアやアート作品が好きだったという熊谷さん。美術部に所属していたころ、好きになるのはすべて北欧の画家だったといいます。思春期に影響を受けた北欧の世界は、淡くも奥行きのあるタペストリーの色使いにも表れていました。
「自分はなんで北欧が好きなんだろう、って考えていたんですけど……。天気が、暗いんですよね。蛍光灯とかも絶対に使わず、必要なところだけにライトを置く習慣があって。光を大切にして生きている現地の人たちが見ている、独特の色に惹かれるんでしょうね」
熊谷さんが好きなフィンランドの女性画家「ヘレン・シャルフベック」
アメリカやイギリスなど、旅先などで集めた毛糸がずらり。アトリエ内には100年前のヴィンテージ糸も。変色していたり、ほつれているものなど、手作業ならではの表情を感じる糸がお気に入り
ずっと気に入って購入していたペルー産の毛糸。現在は入手困難になってしまったのだそう
色もデザインも、繊細さと大胆さが緻密に計算されているように見えるneuloのタペストリー。実は、「デザイン画を描くことはほとんどない」と熊谷さん。イメージはどんなところから湧いてくるのでしょうか。
「デザインを描いてから作ると、自分ではしっくりこないというか、いつもと雰囲気が違ってしまうんです。素敵なお洋服を着ている人や、印象的な人に会うと忘れられなくなって、そこからインスピレーションを得ることが多いです。展示でオーダーを受けるときは、同じデザインを何個も作るのですが、機械的にならないように意識しています。直接お会いできないので、メールでのやり取りにはなりますが、その人の雰囲気や好きなものを思い浮かべながら作ることは、大切にしていますね。これは、接客をしていたからかもしれないですね(笑)」
こちらは青山の結婚式場に飾られている大作。グレーと白のグラデーションで、新郎新婦の二人が交わっていくようなイメージで制作したのだそう(写真提供:neulo)
「BIOTOP」のポップアップショップで制作したもの。世界各国の羊毛を10種ほど使用(写真提供:neulo)
ボストンの珍しい毛糸を入手したときに制作。絵画をイメージしながら1種類の毛糸で編まれています(写真提供:neulo)
neuloのタペストリーが心を温かくしてくれるのは、作り手である熊谷さんのお人柄が見る人に伝わるから。ぬくもりを感じるデザインはもちろんのこと、相手のことを考えた丁寧な手仕事が、neuloの最大の魅力なのです。ブランドがスタートする前から、出産祝いや引っ越し祝いなど、自分の作品を大切な人へ贈っていた熊谷さん。誰かのことを思って何かを作る――ものづくりをする上でこれ以上強いものはありません。そんな気持ちを、熊谷さんはいつも持ち続けていました。
「葉山に移住して、最初は友だちもいなかったので、孤独だったんですよね。子供のころから黙々とつくるのが好きで、趣味の延長線上ではじめたことだったんです。それを仕事にしたことで、いろんな人と連絡を取り合ったり、いいきっかけになりました。ほかの人が関わることで責任も出てくるんですけど、同時に作品の幅も広がったように思います。最近は、空間全体としての見せ方を考えるのも楽しいと感じるようになってきました」
取材中、「自分のことを話すのはあまり得意ではない」と、丁寧に言葉を選びながら話してくれた熊谷さん。しかし、「neulo」のことを話すときの表情はぱっと輝き、堂々としたものでした。しばらくの目標は、自分で紡いだ糸を使ってタペストリーを編むこと。昨年は、手紡ぎの勉強でメキシコの織物職人のもとを訪れたのだとか。今後はニットだけでなく、リネンやコットンなど夏の素材を使った作品も構想中。まだまだ、熊谷さんの好奇心は尽きません。
「隣の家のおばあちゃんが、いつも何かにワクワクしているんですよね。もう80歳なのに一緒にバレエを習っていて。何かあるたびにプリンを作ってくれたり、東京で展示があると駆けつけてくれるんです。この町には、私みたいに自分で何かを作っている方が多くて、刺激を受けることが多いです。私も、葉山のこの景色を見て、きれいだなって思ったり、ずっと変わらない気持ちを持ち続けられる人になりたいですね」
たくさんのハードルを乗り越えてきた熊谷さんには、凛とした強さがあります。痛みを知った手で編まれるタペストリーは、その場にいる人の疲れた心を癒しています。
誰かを思ってつくること。どんなときも、在りのままの自分でいること。ぎゅっと結ばれた糸たちが、手仕事の「強さ」を教えてくれました。
(取材・文=長谷川詩織)
neuloデザイナー・熊谷美沙子さん