
小川洋子『薬指の標本』

事故で薬指の先を失った「わたし」は、偶然見つけた標本室で働くことに。
次第に標本師に恋をするようになる「わたし」の渇望は、純粋であるがゆえに空恐ろしくもあるでしょう。
「じゃあわたしも、自分と切り離せない何かを標本に頼んだら、あなたと一緒に地下へおりられるかしら」
「ああ」
「わたしも、あなたにゆだねられる標本の一つになれるかしら」
彼は答える代わりに、わたしの左手の薬指を持ち上げた。

標本室では、「物質的なもの」と「感覚的なもの」の境界線が曖昧で、そこでは自分自身の存在さえ、曖昧になり得るのかもしれません。
安倍公房『詩人の生涯』

ストーリー自体は、暗いなぁと感じるかもしれませんが、雪景色の描写や独特のオノマトペからは、おとぎ話のような雰囲気が漂います。
母親の包み込むような優しさを感じられるのも、この作品の魅力といえそう。
チキンヂキンと鳴る雪を、両手に受けてじっと眺める。雪にふれても彼はもう凍らない。雪よりももっと冷たくなったのであろうか、その目の輝きは……海岸の砂をすくい上げでもしたように、掌から掌へとさらさら流して、少しも傷つかない。
川端康成『有難う』

たった数ページの短い小説は、「有難うさん」の爽やかな人柄に、伊豆の眩しい風景の描写も加わり、まるで軽快な詩のよう。
運転手が運転台の座蒲団を正しく直す 。娘は直ぐ前の温かい肩に目の光を折り取られている 。秋の朝風がその肩の両方へ流れて吹く 。
乗合馬車に追いつく 。馬車が道端へ寄る 。
「ありがとう 。 」

ささやかな出会いが、運命を大きく変えることに、人生の面白さを見い出さずにはいられません。
坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』

坂口安吾が自身の妻をモデルとして描いた『青鬼の褌を洗う女』。
主人公の幸子は空襲で実の母を失うものの、決して感傷的になることなく、恋愛の揉め事なども含め、全てを退屈なものだと捉えます。

人とは異なる恋愛観や人生観を持つ幸子ですが、「私の愛情は感謝」と、きっぱり言い切る彼女は、まさに可愛い女性そのものと言えるでしょう。
私の笑顔も私の腕も指も 、私のまごころの優しさが仮に形をなした精 、妖精 、やさしい精 、感謝の精で 、もはや私の腕でも笑顔でもなく 、私自身の意志によって動くものではないようだった 。
谷崎潤一郎『細雪』
「中姉ちゃん 、その帯締めて行くのん 」と 、姉のうしろで妙子が帯を結んでやっているのを見ると 、雪子は云った 。
「その帯 、 あれ 、いつやったか 、この前ピアノの会の時にも締めて行ったやろ 」
「ふん 、締めて行った 」
「あの時隣に腰掛けてたら 、中姉ちゃんが息するとその袋帯がお腹のところでキュウ 、キュウ 、云うて鳴るねんが」

30歳前後の彼女たちには共感させられる部分が多く、親しみやすいストーリーは、まるで知人の近況のようで、誰かに話したくなりそうです。
この秋は純文学に挑戦してみませんか?

純文学には、同じ日本人として誇りに思えるような素敵な作品がたくさんあります。この秋は、ここに挙げた作品を入り口として、あなたの愛読書の巾をより広げていってはいかがでしょうか。
純文学というと、ちょっぴり取っつきにくく感じるかもしれません。それでも、深い心理描写や無駄のない文章には、普段私たちが上手く言葉にできない何かを見つけられるはず。
この記事では、キナリノ読者さんが気軽に読める、等身大の女性に焦点を当てた、日本の純文学をご紹介していきます。